タグ

ブックマーク / hituzinosanpo.hatenablog.com (24)

  • 教誨師(きょうかいし)の みなさんへ。 - hituziのブログじゃがー

    森達也(もり・たつや)『死刑』朝日出版社 このを よんでいて、どうしても かきたくなりました。 2006年12月の時点で、全国の教誨師の数は総計1551人。そのほぼ7割は仏教系の僧侶で、残りの3割強を神道系とキリスト教系が占めている。(185ページ) 教誨師は なにをするのか。 徳性の育成を目的とする教育活動。つまり受刑者の改悛や反省の手助けをして、社会復帰するときのために矯正することだ。でも教誨師の使命はそれだけではない。広辞苑には「刑務所で」と記述されているが、例外的に拘置所にも出入りする。死刑囚への教誨だ。(185ページ) 死刑囚は、「心安らかに吊るされるために教誨を受けるのだ」(185-186ページ)。 森達也は、教誨師のTさんにインタビューしています。 死刑囚は半分以上が教誨を受けています。一回につき30分から40分。基的に僕はしゃべらない。聞くばかりです。できるだけ聞く。そ

    教誨師(きょうかいし)の みなさんへ。 - hituziのブログじゃがー
  • 朝鮮人差別について。 - hituziのブログじゃがー

    三浦耕吉郎(みうら・こうきちろう)編『構造的差別のソシオグラフィ』世界思想社 「私たちがある種の関係性のなかにおかれると、個々人のなかの偏見や差別意識の有無とは無関係に、差別に荷担させられたり、差別を引き起こしてしまうことがある」(みうら「序章 〈構造的差別〉のソシオグラフィにむけて」3ページ) マイノリティについて - hituziのブログじゃがー マイノリティは、ただマイノリティなのではない。マジョリティ(多数派)との関係において、マイノリティであるのだ。 日国籍を 一方的に おしつけ、うばいとる。 さて、かんたんに歴史的事実から。在日コリアン弁護士協会 LAZAK編著『裁判の中の在日コリアン』現代人文社より。 1910年のいわゆる日韓併合によって、朝鮮は日の領土とされ、朝鮮人は一律に日国籍を取得しました。その後、日による朝鮮半島の植民地支配が行われていた間、日国籍を有し、日

    朝鮮人差別について。 - hituziのブログじゃがー
  • 冷静で いられるということ。 - hituziのブログじゃがー

    そんなの どうでも いいじゃん。関係ないし。ほっとけば いいんだよ。 そんな無関心。アッケラカン主義。もしかすると、それも必要であるかもしれない。けれども、「気にするほうが おかしい」とは いえないはずのものです。いってはいけないことです。 くだらない権力者がいて、ろくでもないことを いっている。それにたいして、「ふん。ばーか。」で かたづけるのも ひとつの見識だろうけれども、そうではなくて「ふざけるな!」と批判するのも必要なことだ。その都度、自分の思想信条によって批判したり、アッケラカン主義を 発揚したりすれば いいことだ。どちらにも、おなじく理念がある。 こういうときに、いちばん気にさわるのが「気にするほうが おかしい」という イヤミな発言だ。さも、自分は冷静で いられる ご立派な人格者のような口調が、わたしは きらいです。 「冷静に」と おっしゃる あんたこそ - hituziのブロ

    冷静で いられるということ。 - hituziのブログじゃがー
    delayedresolve
    delayedresolve 2009/03/04
    『冷静で いられるということは、無自覚だということでしょうね。自分が やっていることに。あるいは、批判されても びくともしないほどに権力を 独占しているということでしょうね。』
  • 拍手は あとでいい。 - hituziのブログじゃがー

    だれが ほめられるべきとか、そんなことは あとで かんがえたらいい。議論の目的は、支配と殺害と破壊を とめることにある。それが達成されないかぎり、だれも えらくなどない。ほめられるべき ひとは いない。それぞれが それぞれの立場から、やめろ!と主張しつづけるだけだ。 だれかに拍手を おくるのは、目的が達成されてからで いい。だって、なにも おわっていないじゃないか。もっともっと、ずっとずっと、やめろ!と いいつづけよう。イスラエルが支配と殺害と破壊を やめるときまで。やれることを やろう。いま必要なのは批評家じゃないはずよ。

    拍手は あとでいい。 - hituziのブログじゃがー
    delayedresolve
    delayedresolve 2009/02/19
    『いま必要なのは批評家じゃないはずよ。』
  • バトラー『ジェンダー・トラブル』。 - hituziのブログじゃがー

    2月の研究会(第66回)のお知らせ - Net-M研究会 参加してきました。読書会って、たのしいですねー。ひさびさに、いい刺激を いただきました。とりあげたのはバトラーの『ジェンダー・トラブル』。一時期わたしも おかやまで研究会に参加していましたが、そのときもバトラーについて議論したのでした。ですので、『ジェンダー・トラブル』やジェンダーについては、なにかと関心がありますし、これまで あれこれ かいてきました。 ジュディス・バトラー - hituziのブログ 無料体験コース 人と人の間にあるもの - hituziのブログ 無料体験コース 線ひき問題 - hituziのブログ 無料体験コース 人工物としての自然 - hituziのブログ 無料体験コース ジェンダーは行為だ、するものなんだ。 - hituziのブログ 無料体験コース 性差別と性別主義 - hituziのブログ 無料体験コース

    バトラー『ジェンダー・トラブル』。 - hituziのブログじゃがー
    delayedresolve
    delayedresolve 2009/02/10
    『つまり、はたらきかけ(人為)が事後的にそれ以前(自然)を構築するのであり、アプリオリに自然は存在しえない。自然はたえず構築されつつあるものであり、更新されつづけるものである。』
  • 境界線を といなおす。そして、社会問題に 内側から とりくむ。 - hituziのブログじゃがー

    わたしは自分を「永遠の くそがき」だと おもっているのですが、「あべちゃんの文章は おとなっぽい」ということで はなしが まとまってしまいました。てゆーか、7年まえから、いわれつづけています。どうしてでしょうか。おかしいなあ。あたりまえなことを かいてるだけなのにね。むしろ「10代のような みずみずしい感覚」で、「おかしいことは おかしい」「おもしろいことは おもしろい」と「すなおに表現している」みたいなつもりなんですけどねー。えへへへへー。 それにしても、わたしの記事を あんなにも こんなにも ていねいに よんでくださっている みなさんが いるということは、ほんとうに うれしいことでございます。なかでも、つぎの ふたつの文章です。 わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ - hituziのブログ 無料体験コース あたえることには 意識的。うばいとることには 無自覚。 - hitu

    境界線を といなおす。そして、社会問題に 内側から とりくむ。 - hituziのブログじゃがー
    delayedresolve
    delayedresolve 2009/02/10
    『境界線を といなおす。だれが、なんのために線を ひいているのか。』
  • コミュニケーションに正解は ありえない。だから、 - hituziのブログじゃがー

    自閉者と自分勝手なコミュニケーション - hituziのブログ 無料体験コース コミュニケーションに障害はありえない - hituziのブログ 無料体験コース 自分のコミュニケーションを観察する - hituziのブログ 無料体験コース 自閉症と主体性。 - hituziのブログじゃがー うえの記事の つづきを かきます。 ときに、「わたしは障害者と接したことが あんまりなくて、どんなふうに接したらいいのか わからない」という声を きくことが あります。たいせつなことだと感じると同時に、不思議な発想だとも感じます。 『認知症と診断されたあなたへ』医学書院 - hituziのブログじゃがー うえの記事で紹介した ことばに「人は病い一般を生きるわけではありません」というのが あります(『認知症と診断されたあなたへ』25ページ)。 これは、とっても たいせつな視点です。これは つまり、「一般的な

    コミュニケーションに正解は ありえない。だから、 - hituziのブログじゃがー
    delayedresolve
    delayedresolve 2009/01/03
    『「障害者との接しかた」というものはあるはずがないのです…必要なのは、自閉症(障害者)というものについての知識などではありません。そのひとと、どれくらい接してきたかという歴史でわかるようになるのです』
  • 遺伝子組み換え作物と知的所有権(生産者を 支配するもの)。 - hituziのブログじゃがー

    きょうは、遺伝子組み換え(いでんし くみかえ)作物(さくもつ)について。むずかしいけど 挑戦します。 そろそろ遺伝子組み換え品を認めてはどうか? - A Successful Failure うえの記事が たいへん話題になっていたのですが、ちょっと残念に感じました。なぜなら、うえの記事では安全性についての議論だけに注目し、「遺伝子組み換え品」は危険だというのは根拠が うすいという内容だったからです。 そのため、わたしは この記事のはてなブックマークで つぎのようにコメントしました。 知的所有権の問題が指摘されていない。消費者の視点だけじゃなくて、生産者の視点も必要。まだ ちゃんと しらべてないから、たいしたコメントできない。べんきょうする。 まだ べんきょうできたとは いえないのですが、とりあえず、かけることを かきます。よろしく おねがいします。 辻信一(つじ・しんいち)さんとの共著

    遺伝子組み換え作物と知的所有権(生産者を 支配するもの)。 - hituziのブログじゃがー
  • ことばに おしゃれは いらない。 - hituziのブログじゃがー

    むずかしいことを、いかに わかりやすく論じるか。わかりにくいところを ごまかさないままに、きちんと つたえることができるか。これは、表現するものとして、おおきな課題であると おもっています。 むだに ことばを かざらず、必要で適切な ことばを えらぶ。 「べきだ」とか、「はずだ」というのは、できるかぎり ひかえる。そして、効果的に つかう。「とても」とか「きわめて」というのも、なるべく おさえる。そして、どうしても強調したいときに つかう。 わたしも そうかもしれません。むだに ことばを かざってみせる。むだに むずかしい ことばを つかう。つたわりにくく かいてしまう。 わたしの文章の問題点は、たいせつなところになると、あいまいで文学的な表現を つかって ごまかすというところです。それは、肝心な部分について きちんとした知識と見識を そなえていないからです。だから ごまかしてしまう。抽象

    ことばに おしゃれは いらない。 - hituziのブログじゃがー
    delayedresolve
    delayedresolve 2008/12/22
    『私の文章の問題点は大切な所になると曖昧で文学的な表現を使ってごまかす所です/それは肝心な部分についてきちんとした知識と見識を備えていないから/だからごまかしてしまう/抽象的な表現に逃げこんでしまう』
  • さえぎらないで。だまって うけとめることから はじまる対話も あるの。 - hituziのブログじゃがー

    あのね。まだ おぼえている。そして、ふと かんがえるの。 このブログでも、そういうことが あるのかもしれない。あまりに ひどい現実が 提示されて、なにも いえなくなるようなことが。 あのね。だれかが だれかを ストレートに批判したとして、だまらせてしまうようなことが あるじゃない? それを どう とらえるか。かんがえているの。まえにも、かんがえたことが あったわ。 たとえば戦争責任について、そして戦後責任について 批判されたとしましょう。そのとき、まずは 批判してくださる かたの 声を、まっすぐに うけとめないといけないと おもうの。たとえ、そこで「ごめんなさい」と あやまったところで、それは その かたの声を さえぎることになってしまうわ。まずは、うけとめましょうよ。うけとめないことには、はじまらないでしょうよ。 徹底的に非対称な関係において、そして、ささやかな批判を いただいているとき

    さえぎらないで。だまって うけとめることから はじまる対話も あるの。 - hituziのブログじゃがー
    delayedresolve
    delayedresolve 2008/12/13
    『さえぎらないことを まなびましょう。だまって うけとめることくらい、できることでしょうよ。/さえぎらないで。だまって うけとめることから はじまる対話も あるの。』
  • 多数派には名前がない(多数派の「オフサイド トラップ」)。 - hituziのブログじゃがー

    少数派には名前がある(ベジタリアンをめぐって)。の続編と いいますか。逆の視点から おなじことを かきます。 多数派って、なあに。えーっと、社会のなかで 多数をしめる ひとたち? この社会に いっぱい いるひとたちのこと? 「ちょっと ずれたひとたち」以外ってこと? 自分が「ふつう」だと おもってしまえる ひとたちのこと? わたしが おもうに、多数派と少数派は、名前の あるなしで区別できる。少数派には名前がある。多数派には名前がない。これを ずばりと指摘したのが、アイデンティティの政治性を くわしく論じている 石川准(いしかわ・じゅん)さんだ。 障害者は、障害者というアイデンティティとか立場を引き受けるにせよ拒絶するにせよ、つねに「障害者」として振る舞わなければなりません。障害者というアイデンティティや立場から自由になろうとしても、それもまた障害者としての一つの「政治的な意味を帯びた」選択

    多数派には名前がない(多数派の「オフサイド トラップ」)。 - hituziのブログじゃがー
    delayedresolve
    delayedresolve 2008/12/11
    『私は右ききで異性愛者で聴者で晴眼者で定型発達(神経学的な多数派)で健常者でなのだと自覚している多数派は殆どいない/だって"私は普通"だから."普通"であると意識することすら必要でないから社会に埋没できる』
  • 「よみにくい」というまえに。 - hituziのブログじゃがー

    よみやすさって、なんだろう - hituziのブログじゃがー うえの記事は、はじめて よむ ひとにとっては、なかなか スリリングな 文章だと 自負しています。もう一度よんでみても、やっぱり スリリングだと おもいます。はだかの王様を あばいているからです。 さて。 ひらがな あなーきずむに よーこそ。 - hituziのブログじゃがー うえの記事を よんでも、「よみにくい」で かたづけてしまう ひとが います。 やねごんの日記 うえのブログを、よむ気に ならないという ひとが います。 ひとつ、といかけます。おこたえください。 あべ・やすし 2006 「均質な文字社会という神話-識字率から読書権へ」 『社会言語学』6号、127-141ページ 漢字かなまじり文によって、日社会で生活しているひとびとを「支配」することはできる。しかし、漢字かなまじり文による平等や民主主義というものは、実現でき

    「よみにくい」というまえに。 - hituziのブログじゃがー
    delayedresolve
    delayedresolve 2008/12/06
    『「よみにくい」で かたづけてしまう ひとが います』
  • 障害認識を 革命すれば「障害者」の表記など 問題ではない。 - hituziのブログじゃがー

    「障害認識の パラダイムを 転換すれば「障害者」の表記など 問題ではない」と表現しても いいです。 差別のマッチポンプ - E.L.H. Electric Lover Hinagiku うえの記事に 宿題を いただいていたのですが、ずっと反応できずに いました。うえの記事でid:y_arimさんは「障害者」や「障がい者」という表記の問題点を 指摘し、「障碍者」と表記することを 提案されています。 わたしは8月26日に、うえの記事に つぎのようにコメントしました。 「しょーがいしゃ」という ことばは、さまざまな たちばにある ひとが、つかっていますよね。名ざす側も、名ざされる側も。 名ざす側の倫理として議論するのも いいのですが、名ざす/名ざされるという関係を こえて、「名のる」ことばでも ありますよね。自称としてね。 どのように表記するにせよ、音にすれば全部「しょーがいしゃ」です。不具者な

    障害認識を 革命すれば「障害者」の表記など 問題ではない。 - hituziのブログじゃがー
    delayedresolve
    delayedresolve 2008/12/04
    『「害」を「碍」に変えることの意味は全くない/社会のありかたを とわずに、障害者の表記だけを かえてみても、障害認識が 改善されることはない』
  • ひらがな あなーきずむに よーこそ。 - hituziのブログじゃがー

    大学生のころ、テレビを よく みていた。よるは、いつも「ニュース23(ツースリー)」を みていた。筑紫哲也(ちくし・てつや)さんが なくなった。ちくしさんは、23や『週刊金曜日』で漢字について保守的な態度を とっていて、しばしば わたしは いやーな気分にさせられた。 漢字だいすきな サヨクなんて いらないのですよ。社会的障害である漢字を たいせつに おもうっていうのは、車イスで 利用できない公共機関を たいせつに感じるのと おんなじことですからね。「おれは 漢字が すきなんだ」で議論を おわらせようという ひとが いますが、アクセス権の問題ですよ。いかに共存するのかっていう問題ですよ。 漢字が 排除するもの - hituziのブログじゃがー うえの記事を よんで、「でも、少数派のなかにも 漢字が すきな ひとが いる」「漢字が 有効な ひとたちも いる」ということを いう ひとが いらっし

    ひらがな あなーきずむに よーこそ。 - hituziのブログじゃがー
    delayedresolve
    delayedresolve 2008/11/29
    『悲しい事に許せない事に漢字の知識が乏しい人を嘲笑いバカにする社会を私達は作りあげてしまっている/今回日本が本当に嫌な社会である事を"麻生漢字が読めない"という沢山の発言によって再確認させられた』
  • 「ありがたい」ということ。 - hituziのブログじゃがー

    きょうは、ふたつの「ありがたさ」について。 集団主義をこえて、世界をいきる - hituziのブログじゃがー うえの記事で、定住朝鮮人の かたの つぎのような ご発言を 紹介しました。 韓国に いって同胞(在日)だと いうと、なんだ ことばも しゃべれないのかと非難される。 最近は学習して、日人だと いうことにしている。そしたら、ウリマル(われわれのことば)が わかるのかいと、よろこんでもらえる。 これは、これまで 何度となく くりかえし指摘されてきたことです。たとえば、日人が 韓国に いって 「いきなり日語」を はなすことはあっても、その逆はない。 日人が 朝鮮語を まなんで感謝されることはあっても、その逆は すくない。 夫が 家事を てつだうことで 感謝されることはあっても、が 家事を することは当然であると おもわれている。感謝されるのは、いつも、「ほとんどしない」 ひとた

    「ありがたい」ということ。 - hituziのブログじゃがー
    delayedresolve
    delayedresolve 2008/11/16
    『それが滅多にない事であり多数派はいつも何もしないからこそ"ありがとう"になる/少数派からあらゆる物を奪いとった後で施す事でありがたさを演出し感謝される構造に自分達を位置づける』
  • いつも屠場(とじょう)労働者の みなさんが 笑顔で いられますように。 - hituziのブログじゃがー

    肉を たべること、そのために 動物を ころすことについて、何度か かいてきました。 「かわいそう」のバランス - hituziのブログ 無料体験コース わらって ころそう、ニワトリを! - hituziのブログ 無料体験コース シチメンチョウ(七面鳥)は すごかった - hituziのブログ 無料体験コース 「自分の手で殺せる生き物だけをべよう」(きっこのブログ) - hituziのブログじゃがー いろいろな感想を もたれるのは わかります。けれども、屠場(とじょう)労働者の立場も かんがえてみてほしいのです。だれかが「わたしは わらって ころせない」というとき、ただたんに そのひとの感覚を かたっているだけなら かまいません。けれども、「わらって ころす」ことを マイナスにとらえ、「涙を ながしながら ころす」ことを 美化したり、プラスに評価するようなことは、絶対にしないでほしいと お

    いつも屠場(とじょう)労働者の みなさんが 笑顔で いられますように。 - hituziのブログじゃがー
    delayedresolve
    delayedresolve 2008/10/03
    『何千何万もの動物をたべていながらいざとなって自分でころすときには涙をながすようなことがそんなに美しい物語でしょうか/屠場でしごとをしている人たちは毎日のように「葛藤」しなくてはいけないのでしょうか』
  • 相対主義について - hituziのブログじゃがー

    わたしは、相対主義が有効なときと、そうでないときが あるように おもう。 言語相対主義や文化相対主義という理念は、それが理念であることが重要です。つまり、ある言語や文化だけが重視されている現状があり、それにたいする対抗理念として、言語や文化に優劣は存在しないと主張しているのです。この理念を あたまから否定することは、むずかしいのでは ないでしょうか。 ただ、言語や文化に優劣は存在せず、どれもが ひとしく価値を もつならば、「なんでもあり」になってしまいます。つまり、暴力的な言語や文化さえ肯定してしまうのか?という疑問を さそいこむのです。 ここには、ある誤解が あります。文化相対主義が、ある文化と ある文化のあいだで相互批判したり議論するのを 禁止しているかのように みなしているからです。 ある文化が ある文化を 支配し、おさえこんでは なりません。けれども、批判したり、議論したりするのは

    相対主義について - hituziのブログじゃがー
    delayedresolve
    delayedresolve 2008/08/07
    『相対主義という立場は現実にはありえません/"確かに社会構成主義は相対主義的であるといえます…しかし、だからといって社会構成主義が相対主義を支持しているというわけではありません"』
  • 『あなたへの社会構成主義』 - hituziのブログじゃがー

    社会心理学者の長谷川 芳典(はせがわ・よしのり)さんがじぶん更新日記で、ケネス・ガーゲンの『あなたへの社会構成主義』(ナカニシア出版)での解説を 要約されているので紹介しておきます。 社会構成主義は、「何が存在するのか」「何が事実か」を決めてしまおうとしているのではないのです。何かは、単にそこにあります。ところが、何があるのか、何が客観的な事実なのかを明確に述べようとし始めた瞬間、私たちはある言説の世界、したがってある伝統、生き方、価値観へと入りこんでいきます。 「目の前に」現実の世界があるかないかを問うことでさえ、心(頭)の内側にある主観的な世界と外側のどこかにある客観的な世界を分けようとする、二元論という西洋の伝統的な形而上学を前提としているのです。 「事実」についてのある説明を固く信じている時、私たちは、他の可能性に対して自らを閉ざしてしまっています。この意味で、私たちにとって最も明

    『あなたへの社会構成主義』 - hituziのブログじゃがー
    delayedresolve
    delayedresolve 2008/08/07
    『「社会構成主義」についての要約/『真理と いわれるようなものは、さがしもとめるものでは あっても、けっして、「そこに あるもの」では ないのです』
  • 「吃音者宣言」(1976年) - hituziのブログじゃがー

    吃音は「きつおん」、吃るは「どもる」と よみます。 吃音者宣言 言友会 - ウィキペディア リンク先の文章を、ぜひ よんでください。はなしは それからです。 参考になる 伊藤伸二(いとう・しんじ)1977年『吃音者宣言―言友会運動十年』 伊藤伸二 1999年『新・吃音者宣言』 伊藤伸二『知っていますか?どもりと向きあう一問一答』 伊藤伸二(いとう・しんじ)編著 1999年『吃音と上手につきあうための吃音相談室』 水町俊郎(みずまち・としろう)/伊藤伸二 編 2005年『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』 藤樹拓也(ふじき・たつや)2002年『吃音! 吃音者のどこが悪い?』 このなかから、『新・吃音者宣言』を紹介しておく。伊藤さんは、「《どもり》を死語にしたくない」という。 どもりに悩む人が吃るのと、あわてたら誰でもつっかえますよとは質的に違う。それを、誰でも吃りますよと表現さ

    「吃音者宣言」(1976年) - hituziのブログじゃがー
    delayedresolve
    delayedresolve 2008/07/27
    『「どもり」と「慌てたら誰でもつまる」は違う/それを誰でも吃るよと言われたり/また子供に吃りを意識させたくないと「吃る」と言わない人も/吃りという言葉がなくなると、この自分の状態をどう表現すれば
  • マイノリティについて - hituziのブログじゃがー

    「ひとの数だけ可能性がある。」では、前半と後半で ちがうはなしをかいた。 前半では、人間のありかたを認識するさいに、ふたとおりのアプローチがあることを論じた。 ひとつには、「ふつう」な人間なるものを設定し、その「ふつう」という概念から はずれた「当たり前でないこと」を、どのように うけとめるかという問題設定 もうひとつは、「これも それも あたりまえである」というアプローチ この、「これも それも あたりまえである」というのは なにも、ただたんに多様性を指摘するだけで満足するつもりで かいているのではない。「人間の価値観や行動様式、すがた かたちは、ものすごく多種多様」であることを きちんと把握するなら、社会があまりに排他的に設計されていることに気づかされる。そして、そこで「「配慮の平等」という視点」にたって、社会を変革する必要性を認識し、具体的に社会をかえていこうと主張しているのだ。 は

    マイノリティについて - hituziのブログじゃがー
    delayedresolve
    delayedresolve 2008/07/26
    『マイノリティは、ただマイノリティなのではない。マジョリティ(多数派)との関係において、マイノリティであるのだ。』