百済木簡が初めて出土したのは1982年から1983年にわたった扶余・官北里蓮池およびその周辺発掘からであったが、文字があまり読めなかったため、ほとんど注目されることがなかった。引き続き百済地域の益山・弥勒寺址でも1987年に木簡2点が出土したが、報告書が1996年に刊行されたこともあって、同様に関心を引くことはできなかった。百済木簡の本格的研究がなされ始めたのは、1997年10月-12月に扶余・宮南池木造貯水槽施設内で38字墨書木簡が出土してからである。百済都城の制度と関連してマスコミの大々的な注目をあび、これに関する1999年の報告書が刊行されるまで全3編の論考が発表されるなど、百済木簡研究の嚆矢となった。続いて扶余・陵山里寺址の発掘過程で、2000年に10点、2001年に19点が出土した。扶余・官北里からも2002年に12点、2003年に2点など、計14点の木簡が出土した。 こうした木