庶民から天下人にまで出世した、日本史上最強の成り上がり――豊臣秀吉。 大の女好きでもある秀吉、最大の不幸は子供に恵まれなかったことでしょう。 片っ端から色んな女性に手を出しながら、「秀吉を父とする子」を産んだのは、晩年に側室になった淀殿ただ一人です。 現代の医療なら、男性側の生殖能力に問題があると判断して、海外では精子をもらって体外受精したりすることもあるケース。 歴史学者の服部英雄九大名誉教授は、その著書『河原ノ者・非人・秀吉(→amazon)』でこう断言しています。
「アラビアのロレンス」の死の真相映画アラビアのロレンスの主役を演じた俳優のピーター・オトゥールさんが12月14日、病院で死去しました。81歳でした。 オトゥールさんは安らかな死を迎えたようですが、武将ジャパンでは、ロレンス本人の波乱万丈の死の真相についての記事を載せています。ぜひ読んでください ◇ 先日のガガーリンの死の真相ネタは、結構読まれたようですね。近現代史の有名人とは言え、今の世代の人にしたらソ連という国や冷戦という概念が分かるのかなぁと危惧していましたので、意外と言えば意外でした。まぁ素直に喜ぶべきなのでしょう。てな訳で柳の下の泥鰌を狙う事にします。 先日、 ニュー・ジャーマン・シネマの巨匠、ヴェルナー・ヘルツォークがメガホンを取る「砂漠の女王」という映画の制作発表がありました。20世紀初頭に活躍したガートルード・ベルという女性(イラク建国の立役者的役割を果たし、「イラクの無冠女
伊勢神宮は、正式には「神宮」と呼びます。 神宮は一つの社だけを意味するのではなく、二つの相並び立つ「内宮」(皇大神宮)と「外宮」(豊受大神宮)の2社を中心に、別宮、摂社、末社、所管社を含めた125社からなっています。 八百万の神々が具現化したような聖地なわけです。 通常の参拝方法としては、まず食の神様豊受大御神(とようけおおみかみ)を祭る外宮から参拝し、次にバスなどにのって、天皇家の祖先神であり太陽神のアマテラス(天照大御神)がまつられる内宮を参拝します。 とはいえ、とくに年末年始に両社を移動するのは大変ですので、多くの方は内宮のみという選択のようです。そのため内宮の参道であるおはらい町にあるおかげ横丁は日本有数の観光地となっています。 江戸時代以来の伊勢まいりの賑やかさと一転して静寂な境内を訪れることで、ふつうの神社以上にとても清々しい気分になれるのです。 心のふるさと伊勢神宮七つの秘密
細谷十太夫直英は仙台藩の武士だった細谷の率いた衝撃隊は、漆黒の軍装と一羽の鴉を染め抜いた隊旗と共に、新政府軍に「鴉組」と呼ばれて非常に恐れられた。 「細谷鴉と十六ささげ なけりゃ官軍高枕」と世に謡われた民衆のヒーロー。 そんな細谷十太夫直英とは、どのような場所で育ったのか。 細谷の家は、伊達家第十七代当主・伊達政宗の時代から五十石で召し抱えられ、代々伊達家に仕えてきた下級武士の家柄であった。 ※以下は伊達政宗の生涯まとめ記事となります 1839年(天保十一年)、細谷家の長男として誕生した十太夫は、幼い頃から剛毅果断で剣槍弓銃などの諸芸に通じ、特に鉄砲術を得意としたという。 父母を早くに亡くしたため、元服の年まで寺小姓に出され、寺で習う事ができる読み書き、簡単な算盤などの教育以外は受けられなかったと言われている十太夫。 しかし、そのような暮らしの中でもいつの頃からか林子平を敬愛し、その著書で
本のもとになっているのは、十河が故郷の愛媛県西条市に寄贈した大量の資料。 関東大震災後の復興では、理想的な防災町づくりを進める後藤とともに尽力しますが、さまざまな抵抗勢力によって挫折します(この後藤の計画がきちんと進んでいれば、東京大空襲などでの被害はかなり軽減されたはずです)。 現在でも、東日本大震災の復興が第一と政治家は言っていますが、実のところどうなのでしょう?という感覚を持つことがしばしばですが。。。(以下、上巻の第6章) 「待っていてもラチはあかない。早朝に若槻邸に無断で押しかけろ」。十河はある日の午前5時、牛込の若槻内相邸に一人で乗り込んだ。 (略) 「新内閣は帝都復興をおやりになる方針なのですか。それともこれまでの計画を変更、もしくは中止しようと考えているんですか」 (略) 「なぜそんな質問をするのか。許し難い。帝都の復興は早急に実現したいと決意している。当たり前のことではな
歴史をフザけて遊びながら、でもマジメに学んじゃおうという当コーナー。 今回は「歴史のアレコレ一文字変えたら歴史がアホなことになった」であります。 進行は織田信長さんと、当サイトのライター・破天荒一休。よろしければ皆さん、最後までお付き合いくだされ。 織田信長(以下、NOBU・イラスト富永商太)。言わずと知れた日本の戦国大名 破天荒一休(以下、一休)。当サイト、戦国IXAブログのライター 一休:NOBUさんが死なれた事件、現代では何と呼ばれているか知ってます? NOBU:うむ。本能寺の変であろう 一休:それがですね、最近ネットで「一文字変えて」なんつーのが流行っておりまして。まぁ、言葉遊びですがたとえばこんな風に 本能寺の変態 本能寺の恋 本能寺が変 NOBUさん:おのれ!儂を愚弄する気か! 一休:あっと、刀を取り出すのはご勘弁。NOBUさんの時代にも連歌とか色々あったじゃないですか
こんにちは恵美嘉樹です。今週も新聞4紙の書評からきになる歴史本をピックアップ。9月15日付け紙面です。 各マスコミから大人気の「中村屋のボース」の中島岳志さんの「血盟団事件」が、先週の日経新聞に続いて、朝日新聞でも書評され2冠達成。3冠は堅そうですね。 血盟団事件とは、日本大百科全集から引用です。 右翼による要人暗殺事件。 1932年(昭和7)2月9日、民政党筆頭総務・前蔵相井上準之助(じゅんのすけ)が小沼正(おぬましょう)により射殺され、続いて3月5日には三井合名理事長団琢磨(だんたくま)が菱沼(ひしぬま)五郎に射殺された。 捜査の結果、井上日召(にっしょう)以下14名が検挙され、組織的な暗殺計画が明らかになった。 ブラックリストにあげられた政財界要人は22名にも上る。盟主の井上は日蓮宗の僧侶で、茨城県磯浜の立正護国堂にこもって布教に従事するかたわら、付近の青年たちを国家革新の同志
9月16日は「敬老の日」。以前は毎年9月15日だったのですが、最近はハッピーマンデーによって毎年変わるようになりました。 敬老の日の歴史は新しく、1947年に兵庫県の野間谷村というところの村長さんが提唱した「としよりの日」が起源とされ、66年に祝日に一気に格上げされました。 江戸時代の「お年寄り」はどんな風だったのでしょうか。 織田信長が好んだとされる「敦盛」の「人間五十年…」のイメージもあり、平均年齢が低いこともあり、江戸時代とお年寄り、というのはなかなか結びつきませんが、当時の日記などを見ていると80歳を過ぎた「後期高齢者」が藩から表彰された、といった記事があちこちにあります。 そうした中でもスーパーじいちゃんとスーパーばあちゃんたちの姿を見ていきましょう。 スケベエじいさん(85歳)はとっても真面目 エントリーナンバー1番(二人しかいませんが)は、 備前国の仁堀東村(岡山県吉井町)の
借りた額は銀1,000貫目でした。 現代の感覚でいくらというのは色々ですが、おおざっぱに言うと10億円。 文面は以下のとおりです。 この度、銀子千貫目相調えられ 後藤勝三郎手前より請け取り申し候 種々御念を入れられ、かくの如きの義、わけてかたじけなく候 いつなりとも御用次第に返弁つかまつるべく候 よって件(くだん)の如し 寛永十三年子 二月二十四日 松平陸奥守 政宗(花押) 土井大炊頭殿 酒井讃岐守殿 人々御中 【訳】 このたび銀子1000貫目をご調達いただき、確かに後藤勝三郎方より受け取りました。 いろいろご配慮いただき、本当にかたじけなく存じます。 いつでも御入り用のときはご返済いたします。 よって証文、くだんの如し。 (11頁・佐藤憲一『伊達政宗と手紙』仙台・江戸学叢書12、2009年) 仮に現代の大会社・社長が借りるにしても、決して安くはない金額ですね。 政宗は一体なんのために借り
江戸時代は世界に冠たる出版文化が花開いた時代でもありますが、同時に大量の発禁本を生み出し、思想弾圧が行われてもいました。 それから、ついでに工口も禁止されました。デマばっかり書いてる本も禁止されました。 そうは言うものの、なんでこれは発禁にならなかったんだよ、と思う本も多々あります。そんな発禁本本の実態に迫ったのが、今年7月に発売された一冊。 井上泰至『江戸の発禁本 欲望と抑圧の近世』(角川選書、1680円)です。 秘儀!好色本タイトルの見分けかた 目次 第一章 発禁のシステム 第二章 「行き過ぎた」好色本 第三章 検閲が生み出す表現の「自由」 第四章 戦国歴史物語の実態 第五章 学者たちの考証と歴史の捏造 第六章 取り締まられた仮想戦記 第七章 統制を乗り越えて そもそもなぜ発禁が必要なのか、を論じる第一章から、ペリー来航後に発禁となった思想書まで扱う範囲は幅広い。 もち
コンビニの冷蔵庫や、量販店の洗濯機に入ったり。 あるいは顔にピザ生地を巻いたり。 6年前の2013年にも世間を騒がせたバカッターたちが、今なお続いていることに呆れてしまう人も少なくないだろう。 回転寿司にレストラン、コンビニなど。 インテリジェンスの1ミリも感じられない愚行の数々には、遠慮なく死んでくれとしか言いようがない。 どうせやるなら、ですね。 ちょこまかとバイト先で遊ぶのではなく、国宝級のお宝をバッサリ……なんて言ったらダメ、絶対。 そんなことはただ国益を損なうだけの最悪の行為だが、今を遡ること59年前、実際にいたのである。 国宝「広隆寺弥勒菩薩像」の指を折っちゃった若者が。 ただ、その背景には、どうにも微笑ましいというか、本人を罵倒しきれないちょっとした事情がありまして。 舞台は京都の太秦 広隆寺 京都太秦にある広隆寺には有名な弥勒菩薩像がある。 国宝第一号となった仏像なので、か
今週は読売新聞がびっちり身がつまっていました、歴史本的に。 ということで、恒例の全国紙4紙の書評からの、歴史本書評まとめです。8月25日付け なんと漫画が出ていますよ! 「ビタミンBOOK」で詩人の伊藤比呂美さんが『センゴク』を紹介。 「宮下英樹『センゴク一統記』(講談社)がクライマックスだ。」と始まり、全巻をそろえていることをアピール。 当サイトでも、たびたび出ているセンゴクですが、最近はセリフも「正しい戦国用語」になりすぎて、正直、読みにくい(苦笑)。 伊藤さんはそこのところを巧く表現されていましたね。 その荒唐無稽さがよかった。下克上だ。(略) やがて漫画家は成長し、漫画が変わる。漫画家はいっぱい勉強し、歴史のおもしろさに取りつかれ、古文書にがっぷり向かい合ったんだと思う。今度はその本気を感じた。 古文書からの引用がどんどん増えた。会話から現代っぽさがどんどん減って擬古文み
豊臣秀吉は一代で異常な出世をした人だけに、親族衆や家臣の層が薄いことが弱点。 そのため、息子のような世代の人物を積極的に取り込もうとしています。 福島正則や加藤清正のような、いわゆる”子飼い”と呼ばれる人々はその代表例。 他に当てはまるのが、中国地方の大名・宇喜多秀家でしょう。 秀吉に気に入られ、その養女だった豪姫(実父は前田利家)を妻に与えられ、後に豊臣五大老に選ばれるほどの出世を果たした人物です。 ただし、その後は関ヶ原の戦いで敗北。 八丈島に流され、寂寥感ただよう最期を迎えた……と思いきや、明暦元年(1655年)11月20日に、享年84で亡くなるまで長生きをされているのですから、人の一生とはわからないものです。 イケメンとしても知られる宇喜多秀家とは一体どんな人物だったのか? その生涯を追ってみましょう。
比叡山焼き討ちや一向宗の虐殺など。 織田信長といえば神仏をあがめない不遜な人物というイメージがある。 ところが、実際の信長は、決して既存の宗教を軽んじていたのではない「宗教的な常識人」でもあった。 それは2013年の秋に行われた20年に一度の伊勢神宮の「式年遷宮」(建て替え)からも浮かぶ。 持統天皇4年(690年)に始まり、以降、原則20年ごと(9月15~16日)に行われていたが、朝廷の力が落ちた中世になると、遷宮のための多額の費用と時間を捻出できなくなった。 各地で力をつけていった戦国武将たちは「自国」の経営に夢中で、日本国全体を統括する伊勢神宮には関心を持たなかったのだ。 そこにメスを入れたのが織田信長だった。 ※以下は織田信長の生涯まとめ記事となります 伊勢神宮の式年遷宮を復興させた信長信長が、伊勢神宮に目を付けたのは、尾張の隣の伊勢国への進出を狙っていたからでは?と思うかもしれない
8月15日は終戦記念日。 その終戦から4日後の8月19日、戦闘機でソ連軍に特攻した夫婦がいました。 戦闘機に、黒髪ワンピースの女性が乗っているという「絵」はジブリ映画にでもありそうですが、これが本当に起きた史実だったのです。 ノンフィクション作家の豊田正義氏が刊行した『妻と飛んだ特攻兵』(→amazon)で初めて明らかにされました。 後にドラマ放送もされ、成宮寛貴さんと堀北真希さんが演じられておりましたが、一体どんな史実だったのか。 書評を兼ねて確認してみたいと思います。 ※ドラマはAmazonプライム・ビデオで視聴できます(→amazon) 艶やかな光を湛えて風になびく黒髪がときは昭和20年8月19日――。 満州の飛行場を11機の九七式戦闘機(を改造した訓練機)が飛ぼうとしていました。 この時点日本はすでに降伏しています。 ソ連に対して飛行機を受け渡すためのフライトでした。 11人の操縦
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く