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失われた祭りをもとめて~村上春樹『1973年のピンボール』: アフター・カーニバル
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失われた祭りをもとめて~村上春樹『1973年のピンボール』: アフター・カーニバル
★なぜ村上春樹は消える女たちを探し求めるのか? 村上春樹の小説では、短編長編問わず頻繁に女性が消え... ★なぜ村上春樹は消える女たちを探し求めるのか? 村上春樹の小説では、短編長編問わず頻繁に女性が消える。妻だったり愛人だったり恋人だったり、また失踪だったり自殺だったりと色々だが、とにかく主人公の前からいなくなることが多い。それが村上文学の「喪失」を特徴づける大きなそして具体的な出来事のようにも見える。 むろん「僕」は、消えた女性を探し求める。それが探求譚といわれる所以でもある。「シーク&ファインド」の物語だと。しかし「僕」が「喪失したもの」をただ奪還しようとしているのだとは思えない。かつて「失ったもの」をもう一度手に入れようとするだけの物語ではないはずだ。もちろん消えた女性だけのことではない。失われたのは、自分の前からいなくなった女の向こうにある何かだ。それは過去のある時まで確かにあったものだ。 『1973年のピンボール』で、「僕」は消えた女性「直子」の話に出てきたある駅を、彼女の痕跡を求