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「評する」という行為について : どーか誰にも見つかりませんようにブログ
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「評する」という行為について : どーか誰にも見つかりませんようにブログ
或る時期まで、評論家の宮崎哲弥さんが週刊文春に映画評のような連載を持っており、途中から時事評に変... 或る時期まで、評論家の宮崎哲弥さんが週刊文春に映画評のような連載を持っており、途中から時事評に変わったのでしたが、宮崎さんが映画評をしていた頃、宮崎さんが存在感を発揮するのは時事評の方なのに、何故に映画評なのだろうと、何度も何度も思った時期がありました。まぁ、映画評みたいなものは、ピンからキリだろうし、仮に専門家の評であったとしても、知識偏重であったり、自らの周辺に甘く、そうではない系統の作品に辛辣な評になったり、あまり客観的な評としては安定しない。 となると、毒づくのは悪手となるか、或いは毒づく評で評判を勝ち取るかになってしまうので、やはり、客観的な評というのは、そもそも評価を獲得しえない。そういうパラドックスがあると思う。では評論家はボンクラなのかというと、そうではなくて、中には唸らされるような見事な批評もある。 思えば、西部邁であったと思いますが、「批評とは、地平の如く平らでなければ