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こねこ文、あるいはシニフィアンとシニフィエの結合不良 - 翻訳論その他
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互盛央「蓮實重彦のイマージュ、反イマージュの蓮實重彦」を読む。工藤庸子編『論集 蓮實重彦』に収めら... 互盛央「蓮實重彦のイマージュ、反イマージュの蓮實重彦」を読む。工藤庸子編『論集 蓮實重彦』に収められた文章のひとつで、蓮實重彦「「魂」の唯物論的な擁護にむけて」を主題的にとりあげている。この蓮實の論考、90年代の初め5号まで刊行された雑誌、ルプレザンタシオンの最終号に掲載されたものである。手元にあるので発行日を確認すると、互のいうとおり1993年11月25日。当時わたしは会社勤めをしていた。バレリーナ相手にレオタードやトゥシューズを売っていた。内容のある文章を読む時間なんてほとんどなかったけれど、この号はなぜか書店で手に取り、蓮實のを立ち読みし、買って帰ったのだった。互と同じく「丸山圭三郎の記憶に」と献辞のあるのが気になったのかもしれない。 さて、互のエッセイである。つかみの挿話から面白く、するする読み進めていたのだが、ある箇所で引っかかった。フェルディナン・ド・ソシュールの一般言語学講義