エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
第131回 批評にとって短歌とはなにか /前編 吉岡太朗 - 「詩客」短歌時評
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
第131回 批評にとって短歌とはなにか /前編 吉岡太朗 - 「詩客」短歌時評
はじめに 一章:塚本邦雄の「不安」 二章:菱川善夫と「ひかりになること」 三章:「作者」の逃走 四章... はじめに 一章:塚本邦雄の「不安」 二章:菱川善夫と「ひかりになること」 三章:「作者」の逃走 四章:「読み」以前 おわりに はじめに 三宅勇介は、二〇一七年七月の『短歌研究』誌の特集「わが評論賞のころ、あるいは短歌評論の意義について」の「短歌評論の意義について」という小論において、ある短歌を読んで、心の中で「この歌は好きだなあ。なぜなら……」と思ったとする。それがもうすでに評論なのである。いわゆる少し長めの「評論」というものはその延長にあるにすぎないと書いている。 しかし私にとって、その「評論」のようなものはそんな風に生まれては来なかった。まず「なぜなら」を考え、そこから自然に「評論」の言葉が芽生えてくるなどという状況は存在しなかった。それよりも先に「批評をせよ」と要求する場があったのだ。たとえば「歌会」のような場が私にそれを行わせるような強制力を働かせた。「批評をしたい」という思いより