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ゾーエーと享楽
前回(「エスとリビドーの相違」)、ニーチェが『ツァラトゥストラ』のグランフィナーレで使用する lust... 前回(「エスとリビドーの相違」)、ニーチェが『ツァラトゥストラ』のグランフィナーレで使用する lustは、ラカンの享楽 jouissance だとした。その基盤となる文を、ここでは簡略して再引用しよう。 学問的に、リビドー Libido という語は、日常的に使われる語のなかでは、ドイツ語の「快 Lust」という語がただ一つ適切なものではある。(フロイト『性欲論』1905年ーー1910年註) すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年) そしてジャック=アラン・ミレールの注釈がある。 ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資