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築地松の町並み
島根県出雲地方の築地松のある風景は、まさしくこの地方独特の散居村景観で全国に誇れる貴重な資産であ... 島根県出雲地方の築地松のある風景は、まさしくこの地方独特の散居村景観で全国に誇れる貴重な資産である。 江戸初期までは暴れ川の斐伊川は武志辺りから西に流れて日本海に注いでいたが、寛永16年(1639)の大洪水により、武志辺りから東に折れて宍道湖に注ぐようになった。 そして下流にドンドンと土砂を運んだので、松江藩はこの沖積地の造成をしていった。開墾が進むと山裾に住んでいた農民は、自然堤防などの微高地に住居を構えるようになった。だがチョットした大雨でも、直ぐ水が押し寄せるため、住居の周囲に築地(土手)を造り、それの補強に樹木を植えたのである。その樹木はこの地方独特の厳しい北西の季節風を防ぐにも役立った。 江戸中期から斐伊川の堤防工事がすすみ、洪水の心配が少なくなると、防水機能としての築地の必要はなくなり、防風機能のみになった。南側と東側の築地や樹木が無くなり、西側と北側のみになった。 松ははじめ
2012/09/17 リンク