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太平洋戦争末期の1944(昭和19)年、空襲による延焼を防ぐために、新橋駅西口にあった住宅地の住民は強... 太平洋戦争末期の1944(昭和19)年、空襲による延焼を防ぐために、新橋駅西口にあった住宅地の住民は強制疎開させられた。広々とした更地になった駅前に、終戦から2、3日たったころにはすでに最初の露天商が店を開いていたという。新宿と並んで東京でも最大級の「闇市」の始まりである。 闇市の露店はしだいにバラックの巨大な飲食街を形成していった。「夜になった新橋駅西口の匂いは焼鳥の匂いといってよいくらい、うまそうな焼鳥の匂いがこの辺一帯に立ち込めたものである。・・国電が新橋駅にすべり込むと、高架線から見た窓下の焼鳥屋から立ちのぼる熱気のような焼鳥の匂いが、国電の窓にまで流れ込んできたものである」と、映画評論家の大黒東洋士(おおぐろ・とよし)さんは当時の情景を書いているが(『しんばし第98号』「新橋界隈(7)」より)、それがいまの駅西口、ニュー新橋ビルが建っているあたりのこと。
2012/02/27 リンク