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夏目漱石は縄文モード化の旗手だった?(その2) : 太田述正ブログ移転→ www.ohtan.net
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夏目漱石は縄文モード化の旗手だった?(その2) : 太田述正ブログ移転→ www.ohtan.net
太田述正コラム#8953(2017.3.5) <夏目漱石は縄文モード化の旗手だった?(その2)>(2017.6.19公開... 太田述正コラム#8953(2017.3.5) <夏目漱石は縄文モード化の旗手だった?(その2)>(2017.6.19公開) 漱石(本名、金之助)は幼い時、塩原昌之助の家に養子に出され戸籍は塩原になりますが、9歳の時、塩原の養父母の離婚に伴い、夏目家に戻されます。しかし戸籍は戻されず、名字は塩原のままで、自分は要らない奴だという意識を常に持ちながら思春期と青年期を送ります。その後、長兄と次兄が相次いで結核で亡くなり、残る兄も発病します。この事態に老父が金之助を夏目籍に戻そうとすると、塩原家から高額の養育費を請求されます。一括払いができなかったので、やむなく分割払いの証文を作成し、漱石が署名することになります。名字は塩原から夏目に代わるので、「金之助」とだけ署名しました。訓読みすると「金の助け」です。どれだけ屈辱的だったことか。おそらくこれが漱石のトラウマになったと思います。 ⇒大事な箇所なの