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赤穂浪士唯一の生き残り寺坂信行~討入参加を許された足軽の流転
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赤穂浪士唯一の生き残り寺坂信行~討入参加を許された足軽の流転
延享四年(1747年)10月6日は、赤穂浪士の生き残りだった寺坂信行の命日です。 あの事件と言えば、おそ... 延享四年(1747年)10月6日は、赤穂浪士の生き残りだった寺坂信行の命日です。 あの事件と言えば、おそらく「赤穂浪士全員が切腹したんじゃないの?」と思われがちですよね。 彼の人生を追いかけながら、その辺のことにも触れていきましょう。 身分が高いとはいえない人なので、信憑性の薄い部分もありますが……。 赤穂浪士の一員・寺坂信行信行は、寛文五年(1665年)に赤穂藩の役人の子として生まれました。 8歳のとき、後に赤穂浪士の一員となる吉田兼亮に仕え、信行が26歳になると兼亮が赤穂藩で出世したことで、藩主の直臣という扱いになっています。この時点でも足軽ではありましたが、直臣と陪臣ではいろいろと違いますからね。 給料も増え、浅野家の別の役人から妻をもらい、ここまでは順風満帆な人生に見えました。 しかし、元禄十四年(1701年)に主君の浅野長矩が松の廊下で例の事件を起こしたことで、信行の運命は大きく