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横浜鎖港談判使節団 - Wikipedia
池田長発(正使) 横浜鎖港談判使節団(よこはまさこうだんぱんしせつだん)とは、池田長発(筑後守)を... 池田長発(正使) 横浜鎖港談判使節団(よこはまさこうだんぱんしせつだん)とは、池田長発(筑後守)を正使、河津祐邦(伊豆守)を副使、河田熙(相模守)を目付とし、文久3年12月29日から元治元年7月22日にかけて(1864年2月6日 - 8月23日)幕府が第二帝政期フランスに派遣した外交団である。第2回遣欧使節、池田使節団とも呼ばれる。 概要[編集] 使節団の目的は、開港場だった横浜を再度閉鎖する交渉を行うことであった。孝明天皇は文久3年5月10日(1863年6月25日)に攘夷勅命を発しており、これに従って幕府は5月9日(1863年6月24日)に各国公使に対して開港場の閉鎖を通達するが、諸外国は当然これを拒否し、幕府も9日後にはこれを撤回していた。更に下関事件や薩英戦争、フランス士官カミュ殺害事件等が起きて諸外国との軋轢も高まっていた。このような状況で、幕府は攘夷派を懐柔するため、江戸に近い横