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大内義長 - Wikipedia
大内 義長(おおうち よしなが)は、周防・長門両国の戦国大名。周防大内氏の第17代で事実上最後の当主... 大内 義長(おおうち よしなが)は、周防・長門両国の戦国大名。周防大内氏の第17代で事実上最後の当主。実兄はキリシタン大名の大友宗麟。 生涯[編集] 出生・大内家の猶子[編集] 天文元年(1532年)、豊後大友氏の20代当主・大友義鑑の次男として生まれる。幼名は塩乙丸。 天文12年(1543年)に尼子晴久との戦いで大内軍が敗走する際、大内義隆の養嗣子・晴持が死去。継嗣を失った義隆は天文12年(1544年)、姉婿である義鑑の次男・塩乙丸を猶子とした[3][4]。元服の際に室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱を与えられ、晴英(はるひで)と名乗る。 晴英はあくまで養嗣子ではなく猶子であり、これは義隆に将来実子が生まれなかった場合に家督相続人とする含みを持っていたが、大友氏ではこれを歓迎した。しかし、天文14年(1545年)に義隆の実子・義尊が誕生したため、猶子関係を解消され帰国した[4]。この