![](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/b217664b6472b95fbf73e11df667dfbe44f92077/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2F4%2F4b%2F%25EC%2588%259C%25EC%25B2%259C%25EC%2599%259C%25EC%2584%25B1.jpg)
エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
順天倭城 - Wikipedia
順天倭城の櫓門(『征倭紀功図巻』より) 順天倭城の天守(『征倭紀功図巻』より) 順天倭城(じゅんて... 順天倭城の櫓門(『征倭紀功図巻』より) 順天倭城の天守(『征倭紀功図巻』より) 順天倭城(じゅんてんわじょう、スンチョンわじょう)は、韓国全羅南道順天市海龍面新城里にあった日本式の城(倭城)。慶長の役の際に日本軍によって築かれたものの一つ。 文禄・慶長の役を通じて日本軍は朝鮮半島南岸各地に倭城群を築いて布陣していた。その中でも最西端にあたる全羅道順天の光陽湾に面した沿岸に1597年11月から、小西行長、宇喜多秀家、藤堂高虎を中心として築城を始め、突貫工事により城は短期間で完成をみる。 城の立地は小さな半島状の地形で、三方は海に囲まれた天然の要害で、西側だけが地続きとなっており、ここには丘陵稜線ラインに沿って石垣で長塁を築き、外郭として敵の侵入を塞いでいた。本城は東側最奥部の海に突き出した小山に築かれ、ここに石垣を積み上げ、山頂には3重の天守を上げた。 外郭と本城の間には入り江があり、この入