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厚狭毛利家代官所日記㉔文久2年⑥梶浦の魚せり場 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録
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厚狭毛利家代官所日記㉔文久2年⑥梶浦の魚せり場 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録
厚狭毛利家の民政記録、文久2年(1862)を読む。 梶浦(かじうら)は厚狭川の河口域にある厚狭毛利領内... 厚狭毛利家の民政記録、文久2年(1862)を読む。 梶浦(かじうら)は厚狭川の河口域にある厚狭毛利領内唯一の漁村であり厚狭地域の南端に当たる。 漁区が比較的小さく天保12年(1841)萩藩が地域毎の民情をとりまとめた「防長風土注進案(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)」には、末益(すえます)村の内として「この村は浦方(漁業)ではあるが引受けの海上が狭いため漁船も少なく、時にイワシ網の大漁もあるが、この他の魚は乏しく廻船で働くものもいる。総じて海上より取り揚げるものが少ない」と書かれている。 尚、梶浦に魚せり場(魚市場)が出来たのは天保12年(1841)と伝わりこの頃梶浦には49艘の漁船があった。 文久2年3月1日の記録を現代文に直す。 『梶浦、魚せり場のこれまでを召し上げて(取り上げて)今後は漁民へ任すことにした。 運上銀(税金)1年で金3両として~~ 庄屋より盆暮の2度1両2分ずつ上納する