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前九年・後三年の役(ぜんくねんごさんねんのえき)とは? 意味や使い方 - コトバンク
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前九年・後三年の役(ぜんくねんごさんねんのえき)とは? 意味や使い方 - コトバンク
前九年の役陸奥(むつ)の奥六郡を領し、朝命に抗し貢賦(こうふ)を納めなかった安倍(あべ)氏(俘囚長(ふし... 前九年の役陸奥(むつ)の奥六郡を領し、朝命に抗し貢賦(こうふ)を納めなかった安倍(あべ)氏(俘囚長(ふしゅうちょう))が、頼時(よりとき)(頼良)の代になり衣川(ころもがわ)の南に進出したので、陸奥守(むつのかみ)藤原登任(ふじわらのなりとう)が攻めたが敗れたのがきっかけである。朝廷は1051年(永承6)武門の名将源頼義(みなもとのよりよし)を陸奥守に任じ、1053年(天喜1)には鎮守府将軍も兼ねさせ、安倍氏の制圧にあたらせた。赴任当初、頼時は帰順し、戦乱は起こらなかった。しかし1056年頼義の任期終了の年、頼時は子の貞任(さだとう)が人馬殺傷の嫌疑で罰せられようとしたのを不満として反旗を翻し、朝廷も改めて頼義に討伐を命じた。翌1057年頼時は、頼義の懐柔に応じた安倍富忠の説得に赴き戦死した。しかし子の貞任、宗任(むねとう)らは依然抗戦を続け、同年11月の黄海(きのみ)の戦いでは頼義軍は完