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「ダサい」の美学:ダサい服はダサい人を前提とする?|obakeweb
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「ダサい」の美学:ダサい服はダサい人を前提とする?|obakeweb
以下は、「ダサいという美的用語についてなんか書く」という、自分に課した大喜利への回答である。 「美... 以下は、「ダサいという美的用語についてなんか書く」という、自分に課した大喜利への回答である。 「美しい」や「醜い」と同様に、「ダサい」はさまざまな用法で使われうる。そのなかには、記述的要素がなく純粋に評価的な用法や、とくに美的でない用法など、放っておいてかまわない用法がたくさんある。放っておきたくないのは、次のような用例に現れる「ダサい」である。 「この服はダサい」「これはダサい服だ」 ここでは、記述的な内容をもった美的性質としてのダサさが、個別のアイテムへと帰属されている。おそらく、これがダサいの最もベーシックな用法だろう。 一方、「ダサい」はダサいアイテムを選択したり使用する人に対して使われることもある。 「あいつは服のセンスがダサい」 ここでは、その人の美的センス、趣味、感受性が非難されている。しかし、センスの良し悪しについての判断が美的判断なのかどうかは論争的な点であり、したがって