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松代松太郎著『東松浦群史』
常時我が松浦地方に関する史談の散見するものを抄出すべし、されど主としで、今の東松浦郡及び其の附近... 常時我が松浦地方に関する史談の散見するものを抄出すべし、されど主としで、今の東松浦郡及び其の附近に起りたることをのみ記すであらう、以下総て之に做ふものである。 一 海松橿媛(ミルカシヒメ) 昔、郡の西北に土蜘蛛なる賊があって、名を海松橿媛と云って凶暴の振舞が多かった。偶々景行天皇が熊襲征伐の途次火ノ国地方を巡狩せさせられた時、陪従の臣大田屋子を遣はして誅滅せしめられたが、其の時霞四方に立ち罩めて物のあやめもわかざる程であった、是より其地を名づけて霞ノ里と曰ひ、後泄訛りて賀周(カス)ノ里と云へりと、風土記に見えて居る。今の唐津村見借(ミルカシ)の地がそれである。書紀には、景行天皇十二年紀元七四二筑紫の賊が叛いたので、親征して之む討伐し給ひ、十八年都に凱旋し給ふにあたり。三月筑紫ノ国を巡狩して、始めて夷守(ヒナモリ)(日向国諸県郡内)に到らせ、四月熊ノ縣(肥後国球磨郡)に到りて弟熊を誅し、同月