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豊臣秀吉に尽くしながら、関ヶ原では徳川方に与みした寺沢広高(東軍) | 歴史人
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豊臣秀吉に尽くしながら、関ヶ原では徳川方に与みした寺沢広高(東軍) | 歴史人
様々な武将が参戦した関ヶ原合戦──。今では取り上げられることが稀なマイナーな武将たちも参戦していた... 様々な武将が参戦した関ヶ原合戦──。今では取り上げられることが稀なマイナーな武将たちも参戦していた。それらの中から東西両軍武将たちをフォーカス。武将たちの動きと心の裡(うら)を読み解く。ここでは、秀吉に世話になりながら、事情により、家康軍に付いた寺沢広高に迫る。 寺沢広高 てらさわ・ひろたか 所領/唐津8.3万石、 動員兵力/1,500人(推定) 布陣場所/不明 合戦での動向/福島正則、藤堂高虎ら主力軍の予備隊として活躍 戦後の処遇/本領に加え天草に2万石加増 拙者は、父・寺沢広政(てらさわひろまさ)の子として尾張国に生まれたが、その縁もあって父子ともに太閤殿下(豊臣秀吉)に仕えた。天正20年(1592)の、あの唐武陣(朝鮮出兵)では朝鮮に渡ろうという殿下の接待役を肥前・名護屋城にて務めた。それにしても唐武陣での同僚たちの戦いぶりは、海のこちら側にも毎日のように伝えられて来たっけ。拙者も、