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バレーボール「東洋の魔女」の原点は尼崎にあった…工業都市への未来開いた紡績産業 アマ物語③
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バレーボール「東洋の魔女」の原点は尼崎にあった…工業都市への未来開いた紡績産業 アマ物語③
前回は尼崎の市外局番がなぜ「06」になったのか-を探った。ところが、尼崎には「町」が電話をひくよ... 前回は尼崎の市外局番がなぜ「06」になったのか-を探った。ところが、尼崎には「町」が電話をひくより約10年早い明治26年に、単独で電柱を立て電線をひいて電話を開通させた会社があった。その名は『尼崎紡績』。後の大日本紡績、現在のユニチカである。そして、この尼崎紡績こそが、工業都市・尼崎への〝起点〟となった会社だという。尼崎紡績の誕生物語を見てみよう。 綿花の産地「尼崎紡績」といわれてもピンとこない方も多いだろう。昭和39年の東京オリンピック、女子バレーボールで金メダルを獲得し「東洋の魔女」といわれたメンバーの多くが所属していた会社が「大日本紡績・貝塚工場」(通称・日紡貝塚)。その前身が「尼崎紡績」である。 創業は明治22年。当時、尼崎は疲弊していた。廃藩置県以降、旧藩士たちの働き場所もなく、市民たちの生活も窮乏。なんとかして新たな産業を興さなければならなかった。尼崎の人たちは懸命に活路を探し