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4月1日 島津氏の琉球侵攻(1609年) - 公文書館通信 - 沖縄県公文書館
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4月1日 島津氏の琉球侵攻(1609年) - 公文書館通信 - 沖縄県公文書館
(島津氏の琉球侵攻) 1609(慶長14)年3月4日、薩摩藩主の島津家久(しまづ・いえひさ)から琉球征伐の... (島津氏の琉球侵攻) 1609(慶長14)年3月4日、薩摩藩主の島津家久(しまづ・いえひさ)から琉球征伐の命を受けた総大将の樺山久高(かばやま・ひさたか)は、約3000の兵を乗せた70~80隻余の軍船で薩摩の山川港から琉球へ向けて出港しました。 鉄砲隊を主軸とした 戦慣れした薩摩軍は、奄美大島・徳之島・沖永良部島の島々をつぎつぎと攻略し、3月25日には沖縄島北部の運天港に上陸しました。 【薩摩軍の侵攻経路図】 今帰仁城跡の御内原(うーちばる)から見た北側の風景 晴れた日には与論島が見えることもあるそうです。 3月25日、運天港に到着した薩摩軍は( 赤矢印の付近 )3月27日には今帰仁城を攻め落としました。 さらに薩摩軍は読谷山(ゆんたんざ)(読谷村)を攻略し、海上と陸上の両方から首里・那覇に進撃し、4月1日には王都の中心である首里城に達しました。琉球軍も抵抗しましたが、戦国時代を経験し圧