エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
(書評)國分功一郎著「中動態の世界 – 意志と責任の考古学」を読んで考えたこと
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
(書評)國分功一郎著「中動態の世界 – 意志と責任の考古学」を読んで考えたこと
渡辺真也 (2017年8月28日) 中動体:「私」に囚われた自由意志論からの、柔らかなる逸脱 この本は、能動... 渡辺真也 (2017年8月28日) 中動体:「私」に囚われた自由意志論からの、柔らかなる逸脱 この本は、能動と受動といった二元論的がまだ確立していない時に存在していた、失われた態である中動態について考察することで、意志と責任という考えがどう変遷して行ったのかを考える、果敢な試みの成果である。 冒頭では、薬の使用を自分の意志で止めることのできない薬物中毒者とカウンセラーのやりとりという、社会で実際に起こっている「私」の自由意志ではどうにもならない依存症の現実が提示され、実際に意志や自由、そして責任といったものが、能動と受動という分かりやすい二分法で果たして捉えられることができるのか?という誠実かつ深刻な問いから始まる。 著者は中動態について学ぶ為にギリシャ語を勉強した上で包括的な調査を行い、バンヴェニストを引用して「能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる」と