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論宅に関するfireflysquidのブックマーク (13)

  • 反貧困思想の教典 「椅子とりゲーム」のトリックを暴く | 社会学玄論

    社会に貧困の原因や責任があるという反貧困思想の原理的質は、椅子とりゲームという理論的物語にある。反貧困思想にとって、このモデルは、社会契約思想の原初状態の物語に匹敵する理論的仮定である。 椅子とりゲームとは、要するに、椅子の数がゲーム参加者の数よりも少ないために必ず椅子に座れない脱落者が出るという仕組みをもつシステムである。敗者こそが貧困者となるわけである。 重要な点は、反貧困思想では、敗者に敗因があるのではなく、椅子の数に原因があると考える点である。椅子の数は社会の喩え、ゲームでの敗者は貧困者の喩えであり、椅子の数が少ない社会が悪いと考えるわけである。必ず敗者=貧困者が出るという社会の仕組みこそが貧困の原因であり、従って社会を変革する必要があると考えるわけなのである。 ところが、果たして椅子の数に敗者の敗因はあるのであろうか? 敗者がでるのは、椅子の数に原因があるのではなく、参加者の数

    反貧困思想の教典 「椅子とりゲーム」のトリックを暴く | 社会学玄論
    fireflysquid
    fireflysquid 2010/06/12
    つまり、貧乏人(あるいは敗者)は社会に参加するから悪いということね。社会に参加せず死ねということね。/もはや人としてどうかというレベルだなあ。
  • ニセ科学批判に多様性・自由性は存在しない。 | 社会学玄論

    ニセ科学批判批判に対して、ニセ科学批判者を一般化して論じるなという方がよくいるが、これはニセ科学批判にも色々なかたちがあるということを前提にしての反論である。 しかし、実際はどうだろうか? 確かに、多様なニセ科学批判が乱立している状況ならそうもいえるだろう。残念ながら現実は全く違っているのである。 ニセ科学批判ほど、画一化した思想はない。もともと、ニセ科学批判という創造的な概念を開発したのは、菊池教授である。菊池教授こそが疑似科学批判という概念を一歩前進させ、ニセ科学批判という新しいジャンルを生み出したのである。 そして、多くのブロガーたちを魅了し、自己の思想に賛同する信者をつくってきたのである。確かにネットにおける新型の社会運動として評価できる側面もあるのだが、宗教組織と似た特質が見受けられ、その思想と方法はあまりにも画一的である。 まず、菊池教授のニセ科学批判の考え方に反対するニセ科学

    ニセ科学批判に多様性・自由性は存在しない。 | 社会学玄論
    fireflysquid
    fireflysquid 2010/02/13
    論宅氏の意識の此岸に生じる現象のみを全てとする立場は、本エントリも「貧困の自己責任論」に見られた印象で全てを語るということも一貫している。ただ普通はそれを「脳内お花畑」と呼ぶ。黒い花が咲き乱れている。
  • もちつけblog(仮)、、、の跡地(はてなダイアリーに移転。) 自己責任論における「努力」の問題 湯浅誠『本当に困った人のための生活保護申請マニュアル』(3)

    ■「溜め」による自己責任論批判■ 来、昨日分で書評の範囲は終わっているのですが、一応重要なことですので、自己責任論における「努力」の問題、及びその他について少しだけ書きたいと思います。 自己責任論に対する著者の考えは、wikipediaに概要があります。曰く、自己責任論からは、「自他の持つ社会資の格差(親の所得格差、人脈の有無など人の努力以外の部分で社会における有利不利を決定づけるもの)」が無視され、しかも、この自己責任論は、「「負け組」の人々においても内面化」されている、と。この社会資を、著者は「溜め」と呼んでいます。 「湯浅誠『反貧困』」にて、『紙屋研究所』様が、適切に指摘するように、「少なくともこの概念を経ることで、「自分は抜け出したのだから」「私は陥らなかったから」という議論はもはやできなくなる」わけです。「貧困の背景・実態を多くの人達に知らせる必要がある。」というのも、そ

    fireflysquid
    fireflysquid 2010/02/03
    トラバありがとうございます。/こういう御仁(論宅氏)が学問を装って無茶苦茶言うのは困りものですな。
  • 貧固・犯罪の自己責任論は正しい。 | 社会学玄論

    貧困・犯罪は、社会がつくりだしたものであり、個人の自己責任に帰着させるのは間違いであるという説が、湯浅氏や浜井氏によって吹聴され、多くのブロガーは科学的根拠もなく、それを安易に信じている。 実は、貧困・犯罪の社会原因説が正しいためには、社会調査法の常識からは、以下の社会調査を科学的に実施する必要がある。 アルコール依存症、ギャンブル、女遊び、薬物依存、浪費癖、放浪癖、職業選択の選り好み、協調性の欠如などの自己問題要因を併せ持つ、ホームレスや犯罪者になった人間が、ホームレスや犯罪者の中でどれだけいるかを調査し、それが主たる生活に窮する要因になっているかどうかを調査することである。 上記のような調査は非常に困難だと思われるが、実はすでになされていると類推される。年間何千件とケースを処理する福祉ケースワーカーの調査や矯正保護の専門職員たちの分析調査があるはずである。現場の多くの社会福祉職員やワー

    貧固・犯罪の自己責任論は正しい。 | 社会学玄論
    fireflysquid
    fireflysquid 2010/02/03
    人として恥ずかしくないんかね。問題の表面しか見えてないし、大体観念論に終始してるのはどっちなんだよ。/久々に見たけど全然成長しとらんな。
  • コミュニケーションの事後成立性 | 社会学玄論

    マックス・ヴェーバーは、行為の主観的意味が他者に理解されることで、社会的行為が成り立つと考えた。この場合、程度や質の差はあるものの、一応、行為の主観的意味は目的-手段図式で表され、理解されることになる。行為は、社会の最小単位である。別の観点からは役割とも呼ばれる。行為を要素として成立するシステム論を行為システム論という。パーソンズの社会システム論は、行為(役割)システム論である。 ところが、ルーマンは、行為者自身の主観的意味を行為の社会的意味とするのではなく、他者による解釈を優先させ、行為を他者がどう解釈するのかというところに力点を置き、社会システムの要素をコミュニケーションとした。このことの意味は大きく、行為者の自己完結した主観的意味や他者と共有する解釈枠組とは関係なく、コミュニケーションが発生するという事態を意味する。この考えにより、より多くの社会現象を記述することが可能になった。行為

    コミュニケーションの事後成立性 | 社会学玄論
    fireflysquid
    fireflysquid 2009/01/19
    知識がないとコミュニケーションの中身が空疎になるという当たり前の常識があるかどうかを己に問うてみることを勧めます。メタな解釈に行く前に。空疎な解釈をしたくないのなら、ね。
  • (考え中) : 「水からの伝言」をめぐって #3 - livedoor Blog(ブログ)

    2009年01月10日17:03 カテゴリ ニセ科学 「水からの伝言」をめぐって #3 「「水からの伝言」をめぐって」を読んで違和感を感じるポイントについてのつづき。 第1節「水からの伝言」  第2段落以降より、この写真集、美しいだけならいいのだが、なんとも驚くべき話が書かれている。 : 言葉の意味や内容が水に物理的に影響するというとんでもなく強い主張であり、 : 科学の問題としては「門前払い」と言ってよいだろう。 : いや、それどころか、「生物ですらないただの水が人間の言葉の意味内容に反応する」などというのは、別に科学者でなくとも、ちょっと常識がある人なら即座に笑い飛ばす程度の話だったはずである。 : ちなみに、人気歌手の倖田來未がつい最近、テレビ番組中で「水からの伝言」を肯定的に紹介して話題になった。 (強調は筆者)#2で書いたこととかぶりますが、いちいち心情的な表現が多いのが気にな

    fireflysquid
    fireflysquid 2009/01/18
    論宅氏コメント#31,32、こんな基本的なことがニセ科学批判では考えられていなかったと論宅氏が思っていたということが衝撃。/「他者の道徳観を否定」とは限らない。単に「なんとなく」信じていた場合も。
  • ニセ科学批判は科学ではない? | 社会学玄論

    他ブログの私のコメントです。ニセ科学批判者を科学主義者として観察するよりも、道徳主義者として観察してみた方が面白いと思いました。 http://blog.livedoor.jp/eastcorridor/archives/51149848.html#comments ニセ科学批判者は、事実判断のレベル=科学としてニセ科学批判をしているというよりも、自分たちの道徳観による価値判断によってニセ科学批判をしていることに気づきました。来、自然科学は社会科学同様に事実判断のみに関わり、道徳の問題=価値判断は括弧に入れておき、公平性や中立性を保つものですが、ニセ科学批判はそうではないということです。前から科学的・客観的であるはずなのに主観的な価値判断による感情的表現が混入しているのが不思議だと思っていましたが、自分たちの道徳的価値観を他者に伝えることが目的だったというわけですね。主観的・感情的な表現

    ニセ科学批判は科学ではない? | 社会学玄論
    fireflysquid
    fireflysquid 2009/01/16
    何にもわかってないんだねえ。「事実として間違っていることが明白」だったり「真偽が確定していないのに真であると確定したかのように主張する」から批判してるんじゃないか。道徳云々は批判者に依る話。
  • 悪しき相対主義 - 僕と懐疑の関係

    というわけで、前のふたつのエントリから、科学の方法として妥当な線で主張を行っているのならば、まともな相対主義を改めて持ち込む必要がないという結論に至ったんだけど、納得してもらえたかどうかはちょっと不安。まあ、あんまり気にせず、相対主義に関するエントリの後編として、もっともよく見かけると思われる「行き過ぎた相対主義」について書くよ。 行き過ぎた相対主義 相対主義的な考え方をどこまでも推し進めると、「人間は絶対的な真実には到達できない。あらゆるものは相対的であるから、どのような主張も否定できない。」なんて考え方に陥っちゃうんだよね*1。絶対的な真実でなければ皆同じって考え方に繋がる。まさに糞でも味噌でも一緒にしちゃう主張だよね。糞味噌一緒問題は『はてなダイアリー』とか『Archives » ページが見つかりませんでした』が面白いかな*2。 現実から離れて、哲学的だったり論理的だったりする事しか

    悪しき相対主義 - 僕と懐疑の関係
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    fireflysquid 2009/01/07
    「メタ視点というのはベタを見る視点じゃなきゃいけないんだから、ベタが見えてないのはメタ視点じゃない」かみしめてほしいなあ
  • 正論という名の暴力=ニセ科学批判 | 社会学玄論

    驚く事なかれ、ネットで検察すると、水伝、マイナスイオンゲーム脳、血液型性格判断については、対象そのものよりも、批判的に対象を観察をした者たちによる間接的情報の方が圧倒的に多い。つまり、我々はある人々(=ニセ科学批判者)の価値観に基づいた間接的情報をまず目にすることになる。 社会心理学において、コミュニケーションの二段の流れという学説がある。ある対象や出来事についての情報は、中間集団の濾過を経て、間接的に人々に伝わるというものである。例えば、政治問題は、労働者の所属する労働組合のオピニオンリーダーの解釈を通じて、労働者たちに伝わる。ここで重要な点は、対象にまつわる知識は、対象そのものから直接得たのではなく、すでに特定の他者や集団の価値観に染められた間接的情報であるという点である。つまり、ネットに溢れる水伝、マイナスイオンゲーム脳、血液型性格判断に対する知識は、すでにニセ科学批判者たちの共

    正論という名の暴力=ニセ科学批判 | 社会学玄論
    fireflysquid
    fireflysquid 2009/01/07
    「絶対主義」はどっちだよ。/「独占的」って言うけど、例えば検索で批判側サイトが批判対象より上位に来るようになるまで、どれだけの努力が払われたのかわかってんの?
  • 科学による客観的事実の独占化 | 社会学玄論

    科学が存在する前から、人は自然に対する知識をもっていたわけであり、科学のみが客観的事実を独占するというのは、おかしな話である。 例えば、河豚には毒があるとか、水を沸かすと蒸発するとか、種をまくことで穀物が生えてくるとか、数え上げれば切がない。また自然に対する知識には、能というものもある。匂いや味で腐ったものを判別することもできる。近代化し科学が誕生する前から、人間は自然に対する客観的事実を知っていたのである。自然に対する客観的事実は科学の専売特許ではないことがわかる。科学的方法でしか客観的事実を得ることができないと考えたり、科学が一番よく客観的事実を見つけ出す方法であると考える人がいたら、それは一種のおごりである。 科学という知識に人間が頼りだしたのは、近代社会に入ってからである。近代社会の仕組みと科学は平行している。社会学的には、科学を論じることは、近代化を論じることと質的に同じであ

    科学による客観的事実の独占化 | 社会学玄論
    fireflysquid
    fireflysquid 2008/12/31
    科学の成立過程を勉強した方がいいと思うよ。勉強したら、「独占化」なんてトンチンカンな発想は出てこない。
  • ニセ科学批判への違和感の本質 | 社会学玄論

    客観的事実とは、その対象について、いつ誰が見ても同一の認識内容をもたらす命題のことを言う。客観とは、個々人の視点を離れた万民が共有・利用できる視座からの観察である。そして、科学主義者は、科学という方法で認識すれば、万人が同一の認識内容を得ることができ、人類共通の知識、技術として共有できると考える。一方、主観的事実とは、特定の個人にしか立ち現れない認識内容である。例えば、ある絵を見て特定の印象をもったとする。しかし、その印象は、その個人にとっては、厳然たる事実であるが、万民が共有できるものでない。しばしば、それは心理的事実、精神的事実と呼ばれる。(霊能力者がオーラが見えるというのは、主観的感覚のレベルの話であり、客観的事実とは異なる心理的事実である。従って、客観的事実として見なすのはカテゴリーの混同である。) しかし、このように客観的事実を定義すると、科学のみが客観的事実をつくりだす道具では

    ニセ科学批判への違和感の本質 | 社会学玄論
    fireflysquid
    fireflysquid 2008/12/28
    情けな~「ニセ科学批判者やその周辺者の襲撃を受け、ブログが炎上しています。私もその一人ですので、大変、共感できます。」批判も受けつけないし論争もやだ、ただ言いたいこと垂れ流すだけ。それが学問か?
  • 『「現代の貧困」論座1月号』

    芹沢一也さんも今号の論座を取り上げていますが、かなり気合が入っていると思います。 http://ameblo.jp/kazuyaserizawa/entry-10021077938.html この号では浜井浩一さんと山譲司さんの対談が掲載されています。これはほんとに読んで欲しい対談です。 実は編集の高橋さんのご厚意で私は対談現場に同席させていただきました。 浜井先生は今発売中の「犯罪不安社会 」の校正中の大変忙しいなか、日帰りで京都からいらっしゃった次第です。 山さんは初めてお会いしたのですが、「安原さん、ブログ読んでますよ」といっていただき、ちょっと感激しました。お二人のお話をお伺いながら、そらで具体的数字がポンポン出てきますので、あーこれが専門家同志の会話なんだなーと大変勉強になりました。 とにもかくにも、編集の高橋さん、ありがとうございました。 当は全文読んでいただきたいんです

    fireflysquid
    fireflysquid 2008/12/27
    安原さん「「社会学的機能」という意味での大きな枠組み論は正直いってもういいかなと思ってます。「で、なに?」ってかんじなのよね」論宅氏相変わらず
  • ニセ科学について : ニセ科学批判記事に抱く違和感 - livedoor Blog(ブログ)

    菊池誠氏を始めとする、いわゆるニセ科学批判を展開している人の言葉に違和感を抱いている。 うまく言い表せないが、世の中の捉え方がどうも自分と違うようだ。 何故なのだろうと不思議に思っていたが、参考になる記事を見つけた。 社会学玄論  世界論と真理観の相対主義 真理観は、対応説、整合説、合意説、実用説に分けることができる。 (中略) これを世界領域との対応でみると、 物理的世界=対応説 物理的事実   心理的世界=整合説 心理的(精神的)事実  社会的世界=合意説 社会的事実  世界そのもの=世界の無限の複雑性(三世界を含む全体世界)=実用説 形而上学的事実 (中略)  ニセ科学批判者たちによるスピリチュアル批判は、真理の対応説に準拠している。しかし、江原氏などのスピリチュアルカウンセラーは、真理の対応説には準拠しておらず、真理の整合説や実用説などに準拠し、物語として語っている。 (中略) 多

    fireflysquid
    fireflysquid 2008/12/21
    都合良く勝手に真理観を使い分けてるのは江原みたいなスピリチュアルの人。客観的事実だって言うから科学の立場からも批判するわけで。論宅氏のこの分析も荒っぽすぎるけど。事実とポエム、どっちなの?
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