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ブックマーク / nakaii.hatenablog.com (21)

  • 父が息子に語る「運命の乗り換え」 - 翻訳論その他

    高校生になったMinecraft三昧、FSO2三昧の息子と、ゆうべ「運命の乗り換え」について話した。途中からこちらの説明が錯綜し、自分でもわけがわからなくなってしまったので、そのとき考えたこと、話したかったことを整理するため、書いておこうと思う。 「運命の乗り換え」とは勿論、『輪るピングドラム』最終話クライマックスに飛び出す、世界の全体にどんでん返しを仕掛ける壮大な魔法(?)のことだ。この魔法が遂行された後の画面には、それまで物語の舞台であった、呪われた夜の世界とは色彩を一変させた世界、朝方のすがすがしい世界が映し出される。つまり作品は、「運命の乗り換え」を転轍点として、二つの世界の像をこちらに差し出している。乗り換え後の世界で、登場人物たちは、乗り換え前の世界の出来事をどうやら記憶していない。あるいはそれは、ひとつの夢のようなものとして感じられている。ただし、乗り換え後の世界には、元の世

    父が息子に語る「運命の乗り換え」 - 翻訳論その他
  • 「作者の死」?――ロラン・バルト雑感その3 - 翻訳論その他

    ロラン・バルトが描いてみせた「作者の死」の光景には、作者の死体と並んで、批評家の死体が転がっている。 ひとたび「作者」が遠ざけられると、テクストを<解読する>という意図は、まったく無用になる。あるテクストにある「作者」をあてがうことは、そのテクストに歯止めをかけることであり、ある記号内容を与えることであり、エクリチュールを閉ざすことである。このような考え方は、批評にとって実に好都合である。そこで、批評は、作品の背後に「作者」(または、それと三位一体のもの、つまり社会、歴史、心理、自由)を発見することを重要な任務としたがる。「作者」が見出されれば、テクストは<説明>され、批評家は勝ったことになるのだ。したがって、「作者」の支配する時代が、歴史的に、「批評」の支配する時代でもあったことは少しも驚くにあたらないが、しかしまた批評が(たとえ新しい批評であっても)、今日、「作者」とともにゆさぶられて

    「作者の死」?――ロラン・バルト雑感その3 - 翻訳論その他
    gauqui
    gauqui 2013/03/21
  • ベンヤミン「翻訳者の使命」を読みなおす(3)――パンの件 - 翻訳論その他

    パンのくだりを読みなおす。パンのくだりとは次の部分である。 たしかに〈Brot〉[パンのドイツ語]と〈pain〉[パンのフランス語]において、志向されるものは同一であるが、それを志向する仕方は同一ではない。すなわち、志向する仕方においては、この二つの語はドイツ人とフランス人にとってそれぞれ異なるものを意味し、互いに交換不可能なものであり、それどころか最後には互いに排除しあおうとする。他方、志向されるものにおいては、この二つの語は、絶対的に考えるならまさしく同一のものを意味している。 (「翻訳者の使命」内村博信訳『ベンヤミン・コレクション2エッセイの思想』p.397) まずは「志向されるもの」と「志向する仕方」の区別。これは原文では、「das Gemeinte」と「die Art des Meinens」という言い方をしている。両表現の核をなす「meinen」という動詞は、日語では「意味す

    ベンヤミン「翻訳者の使命」を読みなおす(3)――パンの件 - 翻訳論その他
    gauqui
    gauqui 2013/01/24
  • ベンヤミン「翻訳者の使命」を読みなおす(2)――ウィトゲンシュタインの中動態 - 翻訳論その他

    ベンヤミンが「言語による伝達」(ブルジョワ的伝達)と区別した「言語における伝達」(魔術的伝達)について考える上では、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』中の「論理形式」をめぐる記述が参考になる。野矢茂樹訳(岩波文庫)で引用したい。 4.12 命題は現実をすべて描写できる。しかし、現実を描写するために命題が現実と共有せねばならないもの――論理形式――を描写することはできない。 たとえば「犬がいる」という命題を考えてみる。この命題は、「犬がいる」という現実を描写している。そう考えてみる。けれど、こうして「犬がいる」という命題が「犬がいる」という現実を描写していると考えてみる場合において、そのように考えることを可能にしている条件、ないし対応性の構造それ自体を、命題によって写し取ることはできない。この対応性の条件、命題と現実の密着を成立させている記述不可能な条件のことをウィトゲンシュタインは「論理

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  • ベンヤミン「翻訳者の使命」を読みなおす(1)――「常識的な翻訳観を疑う」 - 翻訳論その他

    湯浅博雄『翻訳のポイエーシス』に収められた「翻訳についての考察を深めるために」という70ページ余りの論考。ベンヤミン「翻訳者の使命」の読解を梃子に展開されるこの論考から抽出可能な命題に、次の二つがある。 1.文学作品は語り得ぬものを語る。 2.文学作品の翻訳は文学作品でなければならない。 著者は、テクストの冒頭、「常識的な翻訳観を疑う」という見出しを置いている。また、文中でも数度「常識」に対する疑念を表明している。けれど、「翻訳についての考察を深めるために」から取り出すことのできる右の二つの命題は、むしろひどく常識的なものに見えないか。常識批判が常識に落ち込んでいるようではないか。なにがどうしてこうなってしまうのか。今からそれを考えたい。 文学作品や思想・哲学テクストはなにを語るのか。なにを告げるのか。あるいはなにをコミュニケートするのか。逆説的に聞こえるかもしれないが、優れた文学作品は

    ベンヤミン「翻訳者の使命」を読みなおす(1)――「常識的な翻訳観を疑う」 - 翻訳論その他
  • 波動言語論、あるいは煙幕としての言語について - 翻訳論その他

    隆明が亡くなってすぐ、新潮と朝日新聞に、中沢新一が追悼文を書いていて、どちらも読んだ。吉の言語論に触れたくだり、うなずける部分とうなずけない部分がある。 吉さんは『言語にとって美とはなにか』以来、言語を「指示表出」と「自己表出」という二つの軸のつくる「複素平面」としてとらえる視点を展開していった。 (「『自然史過程』について」新潮2012年5月号) 「複素平面」が目を引く。言語美にはいろいろ図が入っているけれど、「複素平面」であることを明示したものは見あたらない。括弧でくくられているが、吉自身がどこかでそう言っているのか。あるいは中沢新一の見たてなのか。どちらにせよ、これは的を射た見方だと思った。たとえば次のような図は、不親切すぎる気がする。 (加藤典洋『テクストから遠く離れて』p.11の「図1」) 吉の言語論によれば、言語表現の「価値」は、「その自己表出の値Xと指示表出の値Y

    波動言語論、あるいは煙幕としての言語について - 翻訳論その他
    gauqui
    gauqui 2012/06/18
  • 哲学の欺瞞性――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』から考える - 翻訳論その他

    國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を読んで、「退屈の第三形式」をめぐる議論に興味を持った。國分によれば、ハイデッガーは『形而上学の根諸概念』で「退屈」を次の通り三つの形式に分けている。(※以下、「ハイデッガーは」とあるのは「私の読んだところ國分功一郎によればハイデッガーは」の意。括弧内の頁数は『暇と退屈の倫理学』のもの。また、引用元で傍点が付されている言葉は引用中太字で示した。) 一.何かによって退屈させられること(Gelangweiltwerden von etwas) 二.何かに際して退屈すること(Sichlangweilen bei etwas) 三.なんとなく退屈だ(Es ist einem langweilig) 順番に見ていこう。まずは第一形式の退屈。これはわかりやすい。この退屈は、いわゆる「手持無沙汰」の状態を指していると考えられる。例としてハイデッガーが挙げるのは、田舎の駅

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  • 声を水に流す――朝吹真理子『流跡』の話法について(前編) - 翻訳論その他

    幸田文の小説『流れる』は、こう始まっている。「このうちに相違ないが、どこからはいっていいか、勝手口がなかった」。ふつうの日人であるならば、この文を読んで、格別のひっかかりを覚えることはないはずだ。けれど、このとてもやさしい短文も、これを英語なりフランス語なりに翻訳しようとすれば、だれでも、ちょっとは考え込むはずだ。たとえば、主語はどうしよう。あるいは、この言葉は、いったいだれが語っているのか。日人が日語を日語の内側で読んでいる限り、まず問われることのない問いが、翻訳の場面で、こうしてのっそり、立ちあがる。 この事実が教えてくれることは、でも、なにか。日人は、日語は、言わなくてもわかることは言わない。そういうことだろうか。けれど、言わなくてもわかることを言わないのは、どの国の、どの言葉でも同じではないか。言わなくてもわかることを、くだくだしく言わなければならない。そんな不経済な言

    声を水に流す――朝吹真理子『流跡』の話法について(前編) - 翻訳論その他
  • 複雑系翻訳論 - 翻訳論その他

    ※ 以下の文章には高野和明『ジェノサイド』についてのネタバレが含まれます。 機械翻訳についてきちんと勉強したいなあ、と思いつつ、なかなかまとまった時間が取れないので、文献だけ集めて木村屋アンドーナツべながらパラパラ拾い読みしているのだけれど、『言語の科学入門』(岩波書店)というの後ろのほうに、「言語そのものが『複雑系』である」(p.164)とあるのを見つけて、そうだよなあ、複雑系だよなあ、と思いつつ、高野和明『ジェノサイド』を読んでいたら、次のような記述があった。 アキリは指を使って足下の地面に小さな円を描き、落ちていた木の葉を拾って体を起こした。それから腕をいっぱいに伸ばして葉を掲げると、何かを計るように円の周りを動き回り、指を開いて葉っぱを落とした。ひらひらと宙を舞った木の葉は、アキリが地面に描いた円の中にぴたりと着地した。 つまりこの「アキリ」という名前の人は、どのポイントでどん

    複雑系翻訳論 - 翻訳論その他
  • 『表徴の帝国』の誤訳――ロラン・バルト雑感その2 - 翻訳論その他

    バルトの著作の翻訳については、とりわけ日に紹介され始めた頃の翻訳のひどさがよく指摘される。前出のユリイカ2003年12月増刊号では、やはり松浦寿輝が宗左近訳『表徴の帝国』その他いくつかの書名を挙げ、「ああいう欠陥商品を平然と刊行して屋に並べているのは出版社の恥だ」と容赦ない。でも、こうまで言われると、逆に読んでみたくなる。いったいどれだけひどいのか。 同じ誌面で、丹生谷貴志が宗左近訳の一部を取り上げ、原文と対照させた上で批判している。ちょうどいいので見てみよう。批判されているのは、「かなた」という見出しを持った、『表徴の帝国』冒頭の断章に含まれる箇所である。該当部分の原文は下の通り。 Je ne regarde pas amoureusement vers une essence orientale, l’Orient m’est indifférent, il me fournit

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  • 小説を書かないことの幸福――ロラン・バルト雑感その1 - 翻訳論その他

    澄み切った秋空がひろがっている。今朝から何もべていない。空腹の中、山崎ナオコーラのエッセイ「小説を書くに当たって」(文學界10月号)を読んだ。小説が人間を描くこと、小説家が人間であることが、ともにいさぎよく否定されている。なんておもしろい。けれどその出だし、「小説を書きたい。小説を書きたい、と今書いただけでもすでに幸福になり、もう実際には書かなくてもいいくらいだ」とあるのを読んで、ふと頭をよぎったのは、ロラン・バルトのことだった。 晩年のバルトは、小説を書くことに関心を抱いていたと言われる。事実、コレージュ・ド・フランスでの最後の講義は「小説の準備」がテーマだったし、小説のための構想メモのようなものも残っている。なかには踏み込んで、遺作の写真論『明るい部屋』は彼の小説であった、と強弁する人もいたはずだ(記憶による。たしかではない)。だがこんな言葉もある。 バルトは晩年、「新生(ヴィタ・ノ

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  • ベンヤミンの中動態、ヘイドン・ホワイトの誤解 - 翻訳論その他

    中動態というのは印欧語に見られる態のひとつで、それがどのようなものかといえば、その名の通り「能動態と受動態の中間にある態」ということになる。用語自体は古典ギリシャ語の文法に由来するようだが、実例を挙げれば、ラテン語の「受動形式動詞Deponentia」などがこれにあたる。すなわち「形式は受動であるが、その意味は能動である」(河底尚吾『改訂新版 ラテン語入門』p.137)ような、そういう態のことをこう呼んでいる。古典ギリシャ語の場合、中動態は受動態と同形で、その区別はもっぱら文脈によった。また、バンヴェニストによれば、「受動態は、中動態の一様相であり、後者から発生した」(「動詞の能動態と中動態」)。つまり歴史的にいえば、まずは能動態と中動態の対立、次いで能動態と中動態と受動態の対立、その後、現代印欧語に見られるような能動態と受動態の対立が生じたということらしい。 といっても、現代印欧語に中動

    ベンヤミンの中動態、ヘイドン・ホワイトの誤解 - 翻訳論その他
  • ジュリア・クリステヴァが読むジョナサン・リテル『慈しみの女神たち』 - 翻訳論その他

    楽しみにしていたジョナサン・リテル『慈しみの女神たち』の邦訳がついに出た。さっそく読んだら面白くて腰が抜けた。そして、悪い意味ではなしに、もやもやした。この「もやもや」刺激部について、世の読書人はどう読んでいるのか知りたいと思った。書評など探してみたけれど、まだ突っ込んだものは日ではないようだ。なのでネットで探したら、よさそげな動画を見つけた。2007年4月27日、パリのロラン・バルト・センター(てのがあるらしい)で開催された、『慈しみの女神たち』をめぐるシンポジウムの記録である。主催はエコール・ノルマル。スピーカーはジュリア・クリステヴァ、ロニー・ブローマン、そしてジョナサン・リテル人。冒頭約40分にわたって、クリステヴァが基調講演のようなものを行っている。いくつか興味深い指摘があったので、ご紹介。 (動画はここにあります→http://www.diffusion.ens.fr/in

    ジュリア・クリステヴァが読むジョナサン・リテル『慈しみの女神たち』 - 翻訳論その他
    gauqui
    gauqui 2011/07/12
  • 「雑誌『新しい天使』の予告」(4) - 翻訳論その他

    最終回。最後の二つの段落を読む。この雑誌を制約するもうひとつの制約と、その制約の帰結について。また、この雑誌が『新しい天使』と名付けられていることの意味について。「この私」が、雑誌の統一性の妨げであると同時に、いやそれゆえに、雑誌の統一性の靭帯をなすということ。そして、結び目としての「この私」の歴史性と一個性が、この雑誌の果敢なさの源にあるということ。「近しさ」という概念の複層性を活用した論述の展開は、精読するとややアクロバティックかとも思えるが、そんなことはあまり気にせずに読めるし、気にせずに読んだほうが却っていいようでもある。 *** この雑誌は、まだほかにも特有の制約――右のそれよりもずっとクリティカルな制約――を抱えている。それは、この雑誌の編集者が一個の人間として不可避的に備える限界、すなわち、この私の視野の限界である。私は、それが不可避的である限り、この限界を引き受けざるを得な

    「雑誌『新しい天使』の予告」(4) - 翻訳論その他
  • 「雑誌『新しい天使』の予告」(3) - 翻訳論その他

    第6段落と第7段落。ここで主に語られているのは、対象を論じる際の姿勢と、書き手の資格についてである。とりわけ、哲学的および宗教的取り扱いの重視、そして哲学的および宗教的普遍性と科学的普遍性との違いを掴むことが読解のポイントとなる。ベンヤミンは前者の普遍性を「歴史的なもの」、後者の普遍性を「非歴史的なもの」と見ている。アクチュアリティの観点からベンヤミンが雑誌に求めるのは、もちろん前者の、限りなく果敢ない普遍性だ。 *** この雑誌に普遍性が宿るとして、その普遍性は、いささかも、そこで扱われる対象そのものが持つ普遍性に由来するものではない。普遍性は、対象を哲学的に取り扱うことから生じる。こうした哲学的な取り扱いを心掛けさえすれば、科学的な対象すなわち実利的な対象であれ、政治的な対象であれ、数学的な対象であれ、それに普遍性を付与することができる。逆に、この雑誌に一番おあつらえ向きと思える文学的

    「雑誌『新しい天使』の予告」(3) - 翻訳論その他
  • 「雑誌『新しい天使』の予告」(2) - 翻訳論その他

    第3段落から第5段落までを読む。掲載される文章のジャンルが三つ示されている。「批評」と「創作」と「翻訳」。ベンヤミンの説明は極めてロジカルだ。既存の翻訳でかすんで見える部分、いくらかコントラストを上げてみた。 *** まず何よりも、批評。アクチュアルな雑誌の巻頭は、それで飾らなければならない。さて、批評と言えば、昔の批評は、単につまらないものをつまらないと言っていればよかった。いまは、それでは駄目だ。なぜか。小手先の技術が向上している。最近の作品や作者は、どれも一見すばらしい。でもじつは、ごまかしが上手くなっただけなのだ。今の批評には、こういうニセモノをニセモノだと見抜くことが求められる。おまけに我が国には、どんなにへっぽこな文章でも「批評」を自称してかまわないという、百年来の伝統がある。ようするに批評は、二つの力を回復しなければならない。ひとつは言葉の力、もうひとつは判断の力である。大げ

    「雑誌『新しい天使』の予告」(2) - 翻訳論その他
  • 「雑誌『新しい天使』の予告」(1) - 翻訳論その他

    ヴァルター・ベンヤミンは、1921年、『新しい天使』という名前の雑誌を構想していた。この名前は、同年彼が手に入れたパウル・クレーの絵からとられている。結局、この雑誌は実現しなかったのだが、ベンヤミンは、短くも密度の濃い、かつ非常に示唆に富んだ予告文を残している。 ちと思うところあって、昨晩この「雑誌『新しい天使』の予告」を読みなおした。冒頭部、次のようなことが書いてある。 *** まず、この雑誌がどういう形をとるか、それをお伝えしましょう。内容については、あえて触れないことにします。形式についてきちんと説明すれば、内容についての信頼が得られるはず――そう考えました。そもそも雑誌というものは、その質からいって、綱領とそぐわないところがある。もちろん綱領が不要だといっているわけではありません。ただ、綱領を用意すれば、それだけで生産性が得られるというような幻想には与したくない。それに綱領という

    「雑誌『新しい天使』の予告」(1) - 翻訳論その他
  • それを「主語」と呼ぶのは自由――柳父章『近代日本語の思想』、金谷武洋『日本語に主語はいらない』、鴻巣友季子「朝吹真理子 アテンポラルな夢の世界」 - 翻訳論その他

    文芸誌『群像』の三月号で、マイケル・エメリックという日英翻訳家と柴田元幸が対談をしている。一か所、ふつうに読めば、奇妙なやりとりがある。 エメリック (……)日語には時制が無いと言われます。完了形が基で過去形がないので、自由に「〜であった。〜である。」と続けていくことが出来る。 柴田 現在形と過去形を混ぜちゃっていい。 エメリック 日語はとても寛容な言語ですね。 (「翻訳は言語からの解放」『群像』2011年3月号) エメリックという人は、日語に「過去形がない」と断言している。おまけに「日語には時制が無い」というのだから、とうぜん「現在形」もないと考えているはずだ。にもかかわらず柴田は、「現在形と過去形を混ぜちゃっていい」と、何の留保もなく、エメリックの発言の土台をぶちこわすような言葉で、これに平然と応じている。エメリックは、日語には現在形も過去形もないと言ったのだ。いったいどう

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  • やはり「た」は「過去形」ではない――藤井貞和『日本語と時間』、熊倉千之『日本人の表現力と個性』、そしてトマス・ハリス『羊たちの沈黙』 - 翻訳論その他

    今から十年以上前、妊娠を機に会社を辞め、二人でフランスを一か月ほど旅行した。ニースを拠点にコートダジュールの観光名所をいくつか巡り、アルル、アヴィニョン、リヨンと北上し、最後の十日間ほど、パリで過ごした。一か月はあっという間だった。 帰国の前日、飛行機の中で読むを探すため、フォーラム・デ・アールのフナックに寄った。ミステリの文庫の棚に『Le silence des agneaux』があるのを見つけた。トマス・ハリスの小説『The silence of the lambs(羊たちの沈黙)』の仏語訳である。 この小説は、日語訳で一度読んだことがあったし、映画も観ている。だから途中で知らない言い回しや単語が出てきても、筋を追えなくなる心配はない。それでこれに決めた。 機中、読み始めてすぐ、ぎょっとなった。 Le département des Sciences du comporteme

    やはり「た」は「過去形」ではない――藤井貞和『日本語と時間』、熊倉千之『日本人の表現力と個性』、そしてトマス・ハリス『羊たちの沈黙』 - 翻訳論その他
  • 誤訳は何故なくならないのか――ポール・ド・マン、ジャック・デリダ、ヴァルター・ベンヤミン、山城むつみの交点 - 翻訳論その他

    誤訳はなぜなくならないか。理由はいくつか考えられる。けれど、この問題を考える上で、まず除外しておかなければならないものをひとつ挙げておく。それは、「あらゆる翻訳は誤訳である」という考え方だ。 この命題の根には、「翻訳とは、異なる言語に属する表現どうしの間に等価を打ち立てることだ」という前提がある。翻訳=誤訳論は、この前提の上に「異なる言語間の表現に等価を打ち立てることは不可能だ」という常識をさらに積み上げて、その上にふんぞりかえっている。けれど、常識の足場である等価論が間違っているとしたらどうだろう。つまり、翻訳とは異なる言語間に等価を打ち立てることなんかでは全然ないとしたらどうだろう。誤訳質論は、胡坐をかいた空中浮揚みたいなことになる。こういう発言は、翻訳といえばすぐに「越境!」だとか「トランスなんたら!」だとか、妙に威勢のいいことを言って嬉しがっている人たちに特有の逆説にすぎない。だ

    誤訳は何故なくならないのか――ポール・ド・マン、ジャック・デリダ、ヴァルター・ベンヤミン、山城むつみの交点 - 翻訳論その他
    gauqui
    gauqui 2011/01/16
    『誤訳はなぜなくならないか。理由はいくつか考えられる。けれど、この問題を考える上で、まず除外しておかなければならないものをひとつ挙げておく。それは「あらゆる翻訳は誤訳である」という…』