山田太郎からJ-NSCへの指令 「候補者に対する批判には批判で返すな、無視しろ」 「RTではリベラルに負けてしまう」 「相手への批判は身元がばれてしまう」 「第三者として助けてほしい」 https://t.co/cWcKLztVJT
山田太郎からJ-NSCへの指令 「候補者に対する批判には批判で返すな、無視しろ」 「RTではリベラルに負けてしまう」 「相手への批判は身元がばれてしまう」 「第三者として助けてほしい」 https://t.co/cWcKLztVJT
ずっとタイムラインにあるDappiアカウントの話。自民党と取引関係ある企業の人が野党批判すると何か問題があるんだろうか? Dappiアカウントは保守系のネットの話題で、自分からすすんで集めるほどではない出来事をまとめて知るには便利… https://t.co/1XZauyvlyl
森友学園問題に関する財務省の決裁文書改ざんで、自殺した近畿財務局の元職員赤木俊夫さん=当時(54)=の妻雅子さん(50)が開示請求していた財務省の調査報告書の関連文書を、同省が不開示とする決定を出したことが13日、分かった。11日付。雅子さん側が明らかにした。 不開示の理由に関し財務省は、関連文書を公表すれば同種の調査に必要な協力を得られず、公正な人事に支障を及ぼすと説明。文書に記載された職員に問い合わせが相次ぐなど平穏が脅かされる恐れもあるとした。 雅子さん側は8月、財務省と近畿財務局に「報告書を作成した際の調査に関連する一切の文書」の開示を請求した。
〓東の空に夜が明けた~ 早く起きないと 遅くなる~ 1944年、本部町。根路銘商店の三男、根路銘国文さん(83)=当時8歳=の一日は、この歌で始まった。毎朝6時半ごろ、店舗兼自宅の向かいにあった本部国民学校から響くラッパ音に合わせて口ずさんだ。ラッパを吹いているのは、日本兵だった。 ある日、根路銘さんが家にいると、「ザックザック ザックザック」と軍靴の音が近づき、100メートルの隊列を組んだ兵士たちが、勇ましい軍歌を歌いながら目の前の校舎に入っていった。海上輸送を担う陸軍の、通称「暁部隊」だった。その日から校舎は兵舎になり、朝と夕方にラッパ音が鳴り響くようになった。 「かっこいいな。大きくなったら兵隊になりたい」。学校で勉強できなくなったことへの不満はなく、憧れのまなざしを向けた。 部隊は教室で寝泊まりし、運動場では朝から晩まで訓練を続けた。根路銘さんが通りに出て、友だちと「チャンバラ」や
父の震える手が丸められた日の丸旗を差し出した。包まれていたのは、当時16歳だった横田チヨ子さん(91)=宜野湾市=の賞状。1944年7月、サイパンで日本軍の組織的戦闘が終わって間もない頃だ。 父は大量出血で意識が薄れる中、上空を飛ぶ米軍機を指さし言葉を絞り出した。「賞状を持って生きて帰れ。ちゃんと勉強してれば、あの飛行機にも乗れる」。そう言って間もなく息を引き取った。 ◆命を絶った父 44年6月15日、米軍はサイパンに上陸した。日本軍は圧倒的な米軍の銃爆撃に後退するほかなく、北へ追い詰められた多くの住民らが「集団自決(強制集団死)」で命を落とした。 家族と隠れた北部のアダン林で、砲弾の破片で左腕をけがした父が言った。「この腕を切ってくれんか。そしたら楽になる」。横田さんにカミソリを見せた。 「嫌だ」。断ると、父は近くにいた男性巡査を呼んで腕を切らせ、死んでいった。決意は固かった。 生きて虜
沖縄本島で地上戦が始まった1945年4月、本部町の根路銘国文さん(83)=当時8歳=の一家7人は、八重岳の北側にある真部山の壕を転々とし、死線をさまよった。海は米戦艦で埋め尽くされ、一家は艦砲射撃を避けるため、海と反対側の斜面に掘られた壕に身を潜めた。 「ヒュー、ヒュー、バーンッ!」。艦砲弾が風を切って山頂を飛び越え、壕の前で爆発する。「どこに落ちるのか」。衝撃と恐怖で根路銘さんの体はブルブルと震えた。 ある壕では、入り口に置き去りにされた負傷兵が「兵長殿、苦しい。頼ーむ、俺を一緒に連れて行ってくれ」と叫んでいた。うめき声が途絶えた瞬間、負傷兵の手りゅう弾がさく裂。一家は負傷兵の肉片を踏み越えて逃げた。 別の壕では、日本兵に「宇土部隊の食糧を入れるから君らは出なさい」と追い出された。1分後、壕に艦砲弾が直撃し、食糧を運んでいた兵士たちは死んだ。「生きるか死ぬか、常に紙一重だった」 生後2カ
激しい爆発音と衝撃が全身を包み、気が付くと真っ暗闇の中にいた。1945年6月17日、当時12歳だった糸満市の城間繁雄さん(87)は当時4歳の弟徳栄さんと2人、隠れ潜んでいた旧高嶺村(現糸満市)与座の古墓に閉じ込められた。 外の米兵らしき話し声がやんだ瞬間だった。入り口付近が爆発し、岩と石粉の落盤で覆われた。わずかな光も届かない。頼りは、手探りで見つけた手おのだけ。「このままじゃ死ぬ」「生きたい、外に出たい」と一人必死で掘り続けた。 この日の朝、父と祖母が米兵に撃たれて死亡したばかり。その2日前は近くの湧泉「与座ガー」へ水をくみに行った母と祖父が、米兵に銃殺された。幼い弟と2人だけ生き残り、墓の奥で震えている時だった。 米軍上陸後の4月から、家族6人で戦火を逃げ惑っていた。砲爆撃がさく裂する中、5月下旬に家族壕を日本兵に追い出されてからは、国吉、真栄平、真壁、摩文仁と、南部を転々とさまよう日
沖縄師範学校女子部の生徒だった島袋淑子(よしこ)さん(92)=本部町出身、当時17歳=は1945年3月23日、看護要員として沖縄陸軍病院壕(南風原町)に動員された。「すぐに学校に戻れる」。そう思っていた。 4月1日に米軍が沖縄本島に上陸。戦闘が激化するにつれ、瀕死(ひんし)の兵士が続々と運ばれてきた。米軍を一網打尽にしているはずなのに、敵の攻撃はますます激しくなる。想像していた戦争と「違う」と感じ始めた。 負傷兵の看護や食料運搬、死体埋葬に駆けずりまわる日々になった。命令を受けて移動した糸数壕(南城市)では、手足の切断手術を手伝った。麻酔注射が不足すると、患者に薬品を嗅がせて失神状態のまま...
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く