純粋なセックスは、空想への耽溺を支える現実のパートナーを相手にしたマスターベーションである。それに対して、われわれが<現実的な他者>(<他者>の<現実界>)に到達できるのは、あくまで愛によってなのである。 したがって、愛とセックスの対立は、魂と肉体の対立ではなく、ほとんどその逆なのだ、という話を読みながら、コーヒーを飲んでいるところだ。コーヒーを飲みながら読んでいるとしてもいい。そういう夜の秋である。 いぜんとして、どうしてまだ見ぬわが子に向かって「愛している」などと語れるのかといった問いに立ち止まっていて、嘘であるがゆえに主張はさらに精密に強硬になるという事例を思い出せば、そこに愛がないからじゃないかと思い至った。「愛している」という発話は愛の欠如によって生み出されるわけだが、愛がないというより、じつは「愛という無」がそこにはあって、その「無」が語っているのではないかと思った。だから現実
昨日、大阪まで日帰りで、ある方の引退ライブに行ってきた。 引退ライブといっても、ミュージシャンが引退するわけではない。 同じ会社の先輩だ。 ええと、あれは1989年くらいからだから…、もう18年も前だ。 そのころ彼と同じ部だったことがあり、その後も大阪勤務時代にいろいろお世話になった。 というか、名物社員である。 背が高く、ヒゲにつなぎにガラガラ声。 その異様な存在感で、個性豊かな大阪支社クリエーティブ(広告制作部門)の中でも特に目立っていた。 特に夜。 サングラスして北新地を闊歩し、サラリーマンとは思えないめちゃくちゃをいろいろやっていた。 飲んでる店内を破壊するなんてしょっちゅう。いまでも出入り禁止の店がたくさんあるという。 新地に駐車していたヤクザのベンツをボコボコにして逃げるという伝説も持っている。賭け事で一晩にちょっと言えないような金額を失ったりもしていたらしい。 一緒に飲みに行
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