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ブックマーク / freezing.blog62.fc2.com (14)

  • 坂のある非風景 愛なき結婚

    世の中、何十人にもプロポーズされ、結婚後もプロポーズされるようなひとに限って、氷のように冷めた結婚生活を送っている、という例証に出会って、私はじゃっかんの悲しみに暮れている。彼女の代りに、ではなく、彼女が手に入れることのできなかった愛の成就の代りにである。 そもそも伝統的な結婚とちがって、現代の結婚は「愛している」ことが脅迫的につきまといます。伝統的な結婚に要求されるのは、貞節と敬意(あるいは敬意のよそおい)だけで、結婚の結果愛するようになった(ならなかった)としてもそれは偶然の結果で、そこには愛せよという義務はありませんでした。しかし現代的な結婚には、義務として「愛する」ことが要求されます。わたしは結婚し、その結婚が愛に基づくものである以上、わたしは配偶者を愛さなければならない。それは「愛の逆説」ではないでしょうか。現代の結婚は、いまもわたしは配偶者と愛し合っているのだろうか、といった疑

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    ggg123 2010/06/14
    そうだろうか?
  • 坂のある非風景 夜の思考、昼の行為

    ■思索と創造の対立は、夜と昼の対立である。たとえば「言葉とは何か」と問うことと「言葉をいかに駆使するか」といった対立で、以前鈴木志郎康が、なぜ夜の部分が必要なのかという素朴な問いを発したとき、吉隆明は「仕方がないんだ」という答え方をした。この「仕方なさ」の現在的な位置を問うことが最初の射程になると思う。夜と昼の対立は、意味と行為の対立のように見える。 ■問題を単純にするためにジジェクの例をひいてみる。映画『カサブランカ』のエンディングで主人公(ハンフリー・ボガート)は愛し合っているとわかった恋人(イングリット・バーグマン)を、飛行場でその夫とともに去らせてしまう。そのときの彼の行為は何を意味しているのだろうか。 1. もし恋人をその夫から奪い、一緒になったとしてもそこには苦痛が待っているだけかもしれない。いつか愛は終焉を迎えるかもしれない。夢は夢のままにしておくことがもっともうつくしい。

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    ggg123 2010/06/14
    重要なのは、決定的な思想を獲得するといった意図的なことではなく、たったひとりの(自分の作品を愛する)読者と出会うだけで「書く必然性」が生まれてしまう、そういう偶然性ではないだろうか
  • 坂のある非風景 手をつなぐこと

    弱々しい街灯が、切れかけて瞬いていた。森の向こうに、練習場の大きな照明機器の裏面が見えた。お兄ちゃん、何してんの。従妹だった。飲み物でも買いにいくか、と私は従妹を誘い、練習場へと向かって歩き出す。従妹が手をつないできた。道は暗かったが、星は見えなかった。薄く広がる雲が、空を覆い尽くしていた。 物語が差し出されているのではない。〈物語ること〉として何かが差し出されている。いつだって書かれたことによって初めて、それが「書かなくてもよかった」ことだとわかるし、「書かなければならなかった」ことだともわかる。でも必要なものと不要なものにほんとうは境界なんてない。いったいどこから従妹はやってきたのか、そしてどこへ去ったのか、ただ彼女は私に一瞬触れ、その彼女の無防備な接触が私の無防備な瞬間を作り出している。夜空を見上げるためには従妹と手をつなぎ歩き始める必要があった。でも夜空を見上げる必要なんてなかった

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    ggg123 2010/04/01
    読んでいてもたどり着けない感じがする文章はある。と思う。大抵そういう文章は読んだあとも其の世界に私をひとり残す。様な気がする。
  • 坂のある非風景 愛すれば愛するほど愛し足りない

    存在か当為かという対立がある。「ある」と「あるべき」は同時に助け合いながら現実を出現させる。たしかにあるがままの存在を見ることはなかなかできない。存在は「あるべき」姿という幻想によって私たちの視界に浮上する潜水艦みたいなものだ。 時折、当為を語ることによって自分の価値観を他者に押し付けているのではないかとびくびくしている者を見かける。が、その姿は謙虚に見せかけた植民地主義者の憂いである。価値観を押し付けられる主体とはいったい何か。対象は子供のように、未開の原始人のようにどんなものにも易々と洗脳され信じ込んでしまう愚かものとして思い描かれている。そこには諦められているコミュニケーションがあるが、それ以上に、私の愛によって包まれるべき他者という幻想の支配がある。 「あるべき」を強制することが植民地化を現すことよりも、あるがままを愛し、「あるべき」を禁止するという博愛にこそ植民地化が露出する。こ

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    ggg123 2010/02/24
    そこには諦められているコミュニケーションがあるが、それ以上に、私の愛によって包まれるべき他者という幻想の支配がある。
  • 坂のある非風景 二分の一秒遅れ

    二〇〇二年五月、この種の未来についてもう一つのニュースが届いた。それはニューヨーク大学の科学者がネズミの脳に直接信号を受けることができるコンピュータ・チップを埋め込んだというニュースである。その結果、メカニズムの操作によって、(どの方向に走らせるかを決定するといったように)ネズミを(玩具の自動車の遠隔操作と同じやり方で)コントロールできるというのだ。(略)もちろん、ここでの大きな哲学的な問題は、この哀れなネズミが実質的には外部から決定されるその運動をどのように「経験する」のかという点である。ネズミは、それを何か自然発生的なものとして「経験し」続けるのだろうか(すなわち、自分の運動が操作されていることにまったく気づかないのだろうか)? あるいはネズミは、「何か変だ」、他の何か外部的な力が自分の運動を決定している、と気づくことができるだろうかという問題だ。 ネズミは人間に置き換えられる。外部か

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    ggg123 2008/10/25
    操作される衝動。
  • 坂のある非風景 雑感など書いてみる

    実名匿名論議については、「論議」としてのおもしろみはあるのかもしれないが関心は少なかった。「生活人」と「言論人」との(リアルとヴァーチャルとの)分離を、違う名を使って巧みに演じること。それはあまりにありきたりな処世術に属することだと思えた。「暴露されては困る」といった発言は、との生活とは別に、自分が別の名で呼ばれる愛人との生活を持つ二重生活を営んでいることに似ている。その分離が不完全であることが両者の干渉を拒否したい理由だった。この例で言うと「両方を別々に完全に愛する」という分離があまりに困難なのである。 だから分離したいのに分離できないという状況が、別名を要求する。名は、id番号のように誰かを識別するための記号ではない。「陰陽師」の安倍晴明が言うようにそれは「呪(しゅ)」であり、昨日の自分が今日も同じ自分であることを「同じ名」が縛る。主体に人格の一貫性を押しつけてくるものとしての呪い。

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    ggg123 2007/12/25
    書かれたものはいつも、作者と読者の間にある。だから作者は読み取られることに絶望すべきだが完全には絶望できない。そこに読者の読みの可能性と絶望とがあるように思う。ブログはそのことについて何をするだろう
  • 坂のある非風景 ジジェク・ノート #7

    だから、おそらく、平和と幸福のためには「不自由であることを明らかにするための言語」をいかにして失うかという技術が蓄積される必要があった。自由だと感じる実感は、決定的な不自由の中でその不自由についての感覚を麻痺させるときにしか存在できない。 麻痺というよりも忘我だろうか。仕事に集中するときの忘我、恋人とのエロティックな忘我、何もすることのないときに取り留めのない物思いにふけるぼんやりとした忘我。 忘我は、そこから、一瞬にしてどのようなシフトも可能な、ひとつの空無のように見える。聖パウロ的設問「今日、誰が当に生きているのか」に答えるためにはそのシフトについて考える必要があるだろう。忘我は生それ自体を喪うことではないのか、という問いである。 極論だが、パレスチナ人の自爆攻撃が、自分自身(や他の人びと)を吹き飛ばす点において、何百マイルも離れた敵に対してコンピュータ・スクリーンの前に座って参戦し

  • 坂のある非風景 理解しないことによる理解へ

    僕はただ単純に常識から考えるのです。つまり、他人の苦痛が、どれだけわかるかということ。他人の苦痛がわからないから、医者や看護婦は的確な処理ができる。他人の苦痛は絶対にわからないから、家庭生活も可能なのでしょう。 吉隆明との対談で江藤淳が語っているのは、痛みを理解することではなく、病を理解することがその痛みを取り除く、という法則といってもいいような事実である。医者は患者の痛みを理解しない、だから手術も平然とできる。それは共感なき理解、<理解しないことによる理解>と呼べるものだ。あるひとが苦痛を訴え凭れかかってきたとき、共感的理解によって共に倒れるか、共感なき理解によって支えとなるかといったふたつの愛の分かれ道がそこにある。これを小説と批評の対立と見てもいい。あるいは第三項、共感なき理解によって共に倒れるか。それだとあまりに太宰的か。 「はしごたん騒動」の中で大野さんの記事を読んだ。「彼女に

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    ggg123 2007/12/06
    最後まで聞くこと。自分の場合は、できることはそれだけだと。
  • 坂のある非風景 安らぎを拒む者たち #1

    この記事をnoon75氏と彼を知る者たち、彼を知らぬ者たちに捧ぐ。 小説書か(け)ないでも小説理論家という人種はいくらもいて威張っているが、建築は実際に何かを造ってみせてなんぼという特異な世界だ。理屈がいつも、もの造りの「実体論」に揶揄されてしまうなかなか面白い世界の中で、たかだかこの100年一寸という建築「史」、建築「批評」が自虐的に理屈を尖鋭化していく様子が面白いし、痛ましい。 たしかに小説は実体を持つわけではない。しかしやはり、小説理論の歴史を持たないわが国では、小説理論の語れない小説家はさして問題にされないが小説の書けない小説理論家は不審者であり、揶揄の対象となる。そして実作側からやってくる揶揄によって理論が尖鋭化してしまうことだってある。 ときには、物議をかもした高橋源一郎の「小説小説家にしかわからない」といった発言もあるものの、「実作側からやってくる揶揄」というのはおもに

  • 坂のある非風景 隣人とは誰か

    もちろんこれまでもゼミで「ファッションについて研究したい」と言ってきた学生は少なくない。 そして、私はこれまでそういう研究目標を上げた学生はほとんどゼミ選考で落としてきた。 それはそう言う彼女たちご自身が「ブランド」に身を包み、ファッションに身をやつしていたからである。 自分が現にそれを欲望している当のものについて、その欲望の由来と構造を研究するためには超絶的な知的アクロバシーが必要である。 「ファッションについて研究したい」という学生をばんばん落としてきたのは、「ファッション」というテーマがつまらないからではなく、そのように困難なテーマを自分が研究できると思っている自己評価の不適切さを咎めたのである。 自己評価の不適切さ、というところに着眼すると、でもそういう人は他人評価にしても不適切であるに違いないと思う。我とは一個の他者である。結局そういう人は、優秀な「内田樹の研究室」を落とされても

  • 坂のある非風景 自由の敵には自由はない

    ■様々な近代国家がテロを民主主義の敵として奉り上げた瞬間に、ぼくたちは18世紀のジャコバン党の問題に再び出会っていた。「自由(を旗印にするわれわれ革命派)の敵(王制)には自由はない」というテーゼ。いつでも敵の大きさがぼくたちの大きさであり、敵の位置がぼくたちの臨界となる。そうして敵の殲滅とは、敵をぼくたちの内部に繰り込むことなのだから、つねに勝利は殲滅された側にこそ分け与えられることになる。敵はもう必要ない。彼らはぼくたち自身となって生き残っているからだ。1789年のブルジョア市民革命後、ジャコバン党(ロベスピエール)は自由と平等を民衆に与え続けるために独裁者となり、人々を次々とギロチンに送り続ける恐怖政治へと上りつめてゆく。このとき彼は、自分たちが闘ってきたもの、殲滅した敵の姿(自由の欠如)へと変貌してしまっていた。 ■何年も前にブームとなった国会議員たちの「年金未払い」に対する糾問は、

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    ggg123 2007/11/21
    殲滅した敵の姿に変貌する自己
  • 坂のある非風景 愛という無によって

    純粋なセックスは、空想への耽溺を支える現実のパートナーを相手にしたマスターベーションである。それに対して、われわれが<現実的な他者>(<他者>の<現実界>)に到達できるのは、あくまで愛によってなのである。 したがって、愛とセックスの対立は、魂と肉体の対立ではなく、ほとんどその逆なのだ、という話を読みながら、コーヒーを飲んでいるところだ。コーヒーを飲みながら読んでいるとしてもいい。そういう夜の秋である。 いぜんとして、どうしてまだ見ぬわが子に向かって「愛している」などと語れるのかといった問いに立ち止まっていて、嘘であるがゆえに主張はさらに精密に強硬になるという事例を思い出せば、そこに愛がないからじゃないかと思い至った。「愛している」という発話は愛の欠如によって生み出されるわけだが、愛がないというより、じつは「愛という無」がそこにはあって、その「無」が語っているのではないかと思った。だから現実

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    ggg123 2007/11/21
    そして人に欠如を知らしめるこの「愛という無」が問われるべきだと思う/尊厳とかもそうなのかな。
  • 坂のある非風景 殺意としての優しさ

    ぼくもまた、今は亡き「after game over」について触れておきたい。しかし、ただ優しさ、被害者と同一化しようとしたり、「制度でしかない幸福な物語」を挟んで、しかもそれを鏡にして自分を見ているだけのくせに、そのまま対象の幸福だと信じて感涙にむせぶナルシシズムこそが、ぼくらの不幸の源泉なのだということを告げられればそれでいい。感動しました、幸福を祈っていますという充実した、受動性に見せかけた一方的な関与こそが、書き手を抹殺したのである。 エピソードを書くとき、塗り絵に少しずつ色を塗りながら、対象である存在を際立たせていく作業に似ている。だがその作業は、逆に相手の存在を白紙化していくことにつながっている。これは一種の殺意である。 そういう意味では、抹殺された書き手の記事(「書きたくなかったことについての話」など)にあるへの過剰な優しさの描写は、殺意として読まれるべきかもしれない。しか

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    ggg123 2007/11/21
    >対象の否定という殺意が混じっているからこそ「優しさ」には圧倒的な快楽が伴ってしまう。受ける方も授ける方も。
  • 坂のある非風景 進化を準備する痛み

    書くことはピッチングに似ている。(略) 対して読者というのはバッターだろう。蓋し、インターネットには優れたバッターが少ない。まるでバッティングセンターで軽く汗を流すようにぶんぶん振り回しているその朗らかさに時折嫌気がさすことがある。 書き方が無限にあるように読み方も無限にあるのに、読み方を学ぶのはとてもむずかしい。緻密で厳密な解釈学的読解の反対側には飛ばし読みがあるといった一次元上に、すべては美しく配置されてしまって、あとは字面だけ読む(リテラルな読み)か、アレゴリーとして、メタフォリカルに読むか、行間をどの程度深く読むかといった違いしか残っていない。この野球の比喩はよくできていると思う。投手には七色の変化球があっても、バッターには一種類の打ち方しかないということである。あ、バントもあるか。 揉め事は全部この「読み」の浅薄さが作り出しているだけだし、揉め事とは無関係な記事もまた同じ「読み」

    ggg123
    ggg123 2007/11/21
    眼をみること、手を取ることをはるかに凌駕する親密な出会いかもしれないのだ。/それをリアルとする感性に、何がしか美しさを感じてしまうこころは、どんな風に手を握るための境界線を越えていくのだろう?
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