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2008年3月10日のブックマーク (3件)

  • ハイデガー「技術論」から考える新しいゲシュテル: 極東ブログ

    この間というかこの数年ハイデガー「技術論」のゲシュテル(Ge-stell)の視点から情報技術や超国家性について折に触れて考えているのだが、うまくまとまらない。そんなことを書くのはつらいし、およそ読みに耐えるものでもなかろうと思っていたのだが、なんとなく年越し前に少し書いておきたくなった。 ハイデガーの「技術論」は一九六三年に発表されたもので、その後七〇年代から八〇年代、九〇年代と、いわゆるテクノロジー来の人間という枠組みで問われてきたように思う。子細に見るなら、七〇年代はサルトル流実存主義の系譜、八〇年代にはニューアカ的な例えばデリダの背景的な後期ハイデガー論とも関係しているだろう。九〇年代には浅薄にジャーナリスティックなハイデガー論も起きたが、今となっては収束したかに見える。現在、ハイデガー「技術論」がどのように問われているのか、もはや時代に問われることはないのか、よくわからない。自

    ggg123
    ggg123 2008/03/10
    ゲシュテルぐぐったら一番上に。。よくわからないのになぜかおもしろかった。
  • インターネットについて - 哲学的考察 - 雑記帳

    身体性という言葉を見かけたので、それに言及したについて2003年7月26日に作成した読書録をリサイクル。再読する余裕が今はないので、とりあえずそのままのかたちで残しておく。今読んだら感想もだいぶ変わるのだろうな……。 序論 ドレイファスのこのでの一貫した見方は、「身体性」という言葉に要約できる。 私は哲学者なので、インターネットの具体的な使用法の良し悪しを論じる立場にはない。私の問いはもっと思弁的な、次のような問いである。もしネットがわれわれの生活の中心となったとしたら、つまり、ハーバード大学ケネディ・スクール学長のジョセフ・ナイが「魅力的な新たな文化」と呼ぶものが実現するとしたら、どうなるのだろうか。生活のかなりの部分をサイバースペースで送るようになるにつれて、われわれは、人間を超えることになるのだろうか、それとも人間以下になるのだろうか。 これらの問いを考える際、次のような可能性が

    インターネットについて - 哲学的考察 - 雑記帳
  • はてな界隈がなんかアレっぽいな - Vomit Comet

    道徳的思考モードのスイッチ(http://plaisir.genxx.com/?p=187)が入ると、<敵/味方>論法が作動し、なんか相手に過剰な「誠実さ」を求めはじめるよな…。誠実な対応、誠実な謝罪、名誉回復etc...。「あなたは道徳的じゃない!」「人の痛みを知れ!」「マッチョは云々!」と。ネットでブログの書き手に「誠実さ」を求めてもしゃーないと個人的には思うけれども。そもそも書かれたテクストと書き手の人格は切り離して考えた方が生産的じゃないか。 http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20080304/1204622039 経済システムとして資主義を用いる事と別に、社会維持のためのシステムは必要なのだ。でなければそもそも、資主義、とやらも存続できないのだから。 資主義下の競争をやりたければやればいい。だが、競争であれば競争のルールを決めておく事は無意味じゃ

    はてな界隈がなんかアレっぽいな - Vomit Comet
    ggg123
    ggg123 2008/03/10
    感情的納得とは無縁に、「再分配と労働条件のルール」を確定させていくことだと思うのだが/感情って人間を駆動すると思うから、プラスの方向に作動する感情をサポートするシステムがあるといいと思うけど。