月に1冊、未知なる本を読もうという試み(2024年1〜3月) はじめに 1月:【暇・退屈論】國分功一郎『暇と退屈の倫理学』 2月:【決済】ゴットフリート・レイブラント、ナターシャ・デ・テラン『教養としての決済』 3月:【自炊】土井善晴『一汁一菜で良いという提案』 総括 はじめに 社会人として過ごす年数も少なくはなくなっ…
日経新聞でこんな記事をハッケン。 「日経WOMANサイト」終了のお知らせ 昨年、「パラダイス鎖国」本の発売イベントで中島聡さんと対談したとき、今いる環境が住みにくい場合どうするかという質問に対し、中島さんは「戦え」、私は「逃げればいいんじゃな〜い?」と言ったことがけっこうウケたが、どうも本当にそうなってきたらしい。とはいえ、上記の総務省による背景分析(「海外に移り住む女性が増えている」)が本当に正しいかどうかはもちろんわからないのだが。(出生と死亡の差による「自然減」でなく、入国と出国の差の「社会減」が原因、というのは事実なのだが、フィリピンなどからやってくる女性が不況のために減っただけかも、といったあたりの詳しい中味は私にはわからないので。)なにしろ、なにかと「女性には住みにくい」とされる日本から、いよいよ女性が逃げ出すという話になってきたなら面白いな、と。 外国語ができれば、日本語とい
ライブドア事件とともに、長らくメディアから姿を消していた「ホリエモン」こと株式会社ライブドア元社長・堀江貴文氏が、ネットを中心に、いま再び注目を集め始めている。 数年前、「ホリエモン」旋風が日本を駆け抜けた時期があった。従来の日本企業の慣行に真っ向から挑戦する、企業買収の手法を駆使した彼の経営術や「投資家にとって邪道かどうかは関係ない。ずるいと言われても合法だったら許される」などと言って憚らない彼の挑戦的な言動は、「単なるマネーゲームのプレイヤーにすぎない」などの批判を浴び、論議を巻き起こした。彼が望んでいたかどうかはともかく、この時期メディア上では、堀江氏は日本という国に起きつつある変化の「象徴」として扱われ、彼の一挙一動にテレビ局や新聞社は注目し続けていた。 だが、多くの人が知るように、「ライブドア事件」を境に、メディアから堀江氏は姿を消すことになる。そして、米国発のサブプライム・ロー
みなさんの部屋はインテリアについて工夫をしていますか? 今日はちょっとした工夫で部屋の中をスッキリ、おしゃれに見せるための方法を紹介したいと思います。 目線より高い位置に物を置かない よく こういったスチールラックにテレビを置いてる人っていますよね。 確かにスチールラックは丈夫で安いのでとりあえずこれで、という人が多いのですが、部屋をスッキリ見せるにはちょっとイマイチです。 というのも、目線よりも高い場所に物があることで、圧迫感が生まれてしまいます。 どうしても収納力が欲しい場合は、部屋に入った瞬間に死角になる場所に置いたり、また といった、変わった形のラックで空間を演出してあげるのもいいかもしれません。 ごちゃごちゃを隠すために といったマガジンラックを活用するのもよいかもしれません。 コード類は全て隠す 特にこのブログを読んでいる皆さんは普段PCやAV機器などで部屋の中がコードでぐちゃ
今日の新聞各紙社説では、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併の話が多い。といっても読売新聞にはこの話題はない。ナベツネの顔色をうかがう現状ではなにも書けっこない。朝日新聞は、それをいいことに、標題からもわかるが「球団合併――巨人を分割したら」というように、読売新聞へのおちょくりを書いている。社説でふざけるのもいいかんげんにせーよ。 私は野球にはまるで関心がない。が、ちょっと気になることがあるので、書いておきたい。きっかけに毎日新聞社説「パ2球団合併 ファン不在許されない」をひく。 プロ野球パシフィックリーグの大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併話が日本列島を駆け巡った。セ・パ12球団体制が定着して約半世紀。慣れ親しんだ2リーグ制は維持できるのか、これからも球団の合併や身売りはあるのか。国民の関心が高いプロ野球だけに、今後の協議を注意深く見守りたい。 私の
5号館さんからTBをいただいた科学批評家の話題について少々。 もっともっとたくさんの科学批評家が必要だ 『批評とはなにか』ってことを考えていたら、なんだかちょうどいくつかの記事が目に留まったのでとりあえず紹介します。、 finalventさんが小林秀雄の批評論を紹介した 批評トハ 某イースト氏が自らの批評?について語った 批評について どちらも批評を「作品」として捉えていて、むろん表現には全て作品としての側面が(科学論文ですら!)あるわけですから、それ自体は結構なことだと思います。 ただイースト氏においては対象や正確さはどうでもいい、というところまでイってしまっているようで、まあエンタメ分野においてはありなのかもしれませんが、科学や社会をあつかう際にこれではもはや批評と呼ぶに値しないでしょう。 わたしなりに批評というものを定義するなら、「対象を文脈の中に位置づけること」だと考えます。 世の
ぼくはなにが専門というわけではないけれど、批評とはなにかについてだけは、ここ15年ほどえらく真剣に考えてきたという自負があります。 そんなぼくにとって、批評という行為については、もはやなにを論じているか、その対象やメッセージはどうでもよくなってしまう傾向があります。言いかえれば、ぼくは批評をメタ作品というよりも、ベタにひとつの作品として読んでしまうところがある。したがって、その社会的な影響力や「正確さ」なんてものは、究極的にはどうでもいい。むろん、多くのひとが批評を逆にそういう点でだけ読んでいるのは知っていますし、その受容は尊重しますが。 それは、シネフィルにとっての映画、アニオタにとってのアニメと同じだと考えればいいかもしれません。いかにひどい物語を語っていても、いい映画、いいアニメはありうる。ぼくはそれと同じように批評を読みます。ぼくにとって批評の魅力は、たとえば、文章の構成、問題設定
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