帝京高では、1995年夏の第77回全国高等学校野球選手権大会優勝も含めて3度出場。ただし控え投手のため試合出場は2試合で、途中から外野守備に就いたのみで登板機会はなかった。 立正大学に進学し、東都大学野球に加盟する同校野球部に入部すると150km/hをマークして一躍スカウトから注目されたが、2年生の時に右肘を故障して手術するなど戦列を離れると以降は救援に回ってプロ入りの機会を逃す。大学では3学年上に広田庄司がいて武田勝、吉見宏明と同期であった。リーグ1部通算29試合に登板、6勝8敗、防御率2.69。3年以降は2部リーグとなり、4年春の東洋大学との入替戦2回戦で救援登板したが延長10回裏にサヨナラ本塁打を浴びて敗れた。 大学卒業後、2001年に社会人野球の朝日生命に入社。都市対抗野球にも出場したが、同年末に同社野球部の廃部が発表され、翌2002年から日本通運に移籍。同学年の小川将俊とバッテリ
