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ブックマーク / www.tapthepop.net (21)

  • 松重 豊 スペシャル・インタビュー【後編】音楽好きとしての飽くなき好奇心 そして、甲本ヒロトとの友情を語る

    「超」がつくほどの音楽偏愛俳優・松重豊さん。彼がパーソナリティを務めるラジオ番組『深夜の音楽堂』(Fm yokohama・毎週火曜深夜0:30より放送中)は、TAP the POPでも紹介してきた音楽がたくさん流れていたりと、最近では珍しいぐらいに骨太な音楽番組です。 勝手にシンパシーを感じてしまったTAP編集部は、番組収録後のスタジオに直撃し、松重さんに取材を敢行! スペシャル・インタビュー後編では、フットワーク軽くライブ現場にも足を運ぶ、音楽リスナーとしての柔軟さの秘密、そして長年の友人である甲ヒロトさんとの関係について、たっぷり語ってもらいました。 松重豊 スペシャル・インタビュー前編はコチラ 取材・文/宮内 健 松重 豊(まつしげ・ゆたか) 1963年福岡県出身。蜷川スタジオを経て、映画、舞台、ドラマなど幅広く活躍する俳優。2012年に放送開始した連続TVドラマ初主演作『孤独の

    松重 豊 スペシャル・インタビュー【後編】音楽好きとしての飽くなき好奇心 そして、甲本ヒロトとの友情を語る
  • 松重 豊 スペシャル・インタビュー【前編】パンクからはじまった音楽遍歴と、音楽でつながる家族の絆を語る

    ドラマ『孤独のグルメ』をはじめ、テレビ映画、舞台と八面六臂の大活躍をみせる俳優・松重豊さん。実は無類の音楽好きだってご存知でしたか? 松重さんがパーソナリティを務めるラジオ番組『深夜の音楽堂』(Fm yokohama・毎週火曜深夜0:30より放送中)は、T字路s、Rei、cero、片想い、NakamuraEmi……などなど、TAP the POPでも紹介してきた気鋭のアーティストたちを次々にゲストに招き、ディープな音楽談義を展開。流行に流されない芯のある音楽を毎回たくさん紹介している、最近では珍しいほどに骨太な音楽番組なんです。 自分を育んだルーツにある音楽を大事にしながら、50代半ばを超えた現在も、新しい音楽を貪欲なまでに漁り続けている松重豊さんは、TAP the POPが考える理想のリスナー像だ! ということで、サイト開設5周年を記念してスペシャル・インタビューを敢行。ラジオ番組収

    松重 豊 スペシャル・インタビュー【前編】パンクからはじまった音楽遍歴と、音楽でつながる家族の絆を語る
  • 音楽を軽蔑すらしていた中学一年の甲本ヒロトに、畳をかきむしるほどの衝動を与えた「ドゥ・ワ・ディディ・ディディ」

    ヒロトが音楽の道を進もうと思ったきっかけは、中学時代に聴いたセックス・ピストルズだった。 ピストルズを筆頭にロンドン・パンクのエッセンスは、のちに甲が結成したザ・ブルーハーツやザ・ハイロウズといったバンドに受け継がれている。 しかし、甲ははじめから音楽が好きだったというわけではなく、むしろ軽蔑すらしていたほうだったという。 人前に出てさ、一人前の男が、あんな髪の毛を伸ばして踊って歌うなんて最低じゃんって思ってた。僕、小学校低学年頃からそんな感じ。(『ロックンロールが降ってきた日』より) 小学校時代はぼーっとしているのが好きで、体育と音楽と給はぼーっと出来ないから嫌いだったという。当時は周りからはボケサク、先生からはグズラと呼ばれ、クラスでも影の薄い少年だった。 そんな甲の価値観を一変させる出来事が起きたのは、中学に入って間もなくのことである。 英語の授業でリスニング用のカセット

    音楽を軽蔑すらしていた中学一年の甲本ヒロトに、畳をかきむしるほどの衝動を与えた「ドゥ・ワ・ディディ・ディディ」
  • かまやつひろしと漫画家が蕎麦屋で隣り合わせたことから生まれたTVアニメ『ギャートルズ』の主題歌

    Home TAP the SONG かまやつひろしと漫画家が蕎麦屋で隣り合わせたことから生まれたTVアニメ『ギャートルズ』の主題歌 - TAP the POP 1974年10月5日から1976年3月27日までオンエアされたTVアニメ『はじめ人間ギャートルズ』は、原始人たちの家族が繰り広げる日常を描いた園山俊二原作のギャグ漫画をアニメ化した作品だ。 かまやつひろしがその主題歌を頼まれたのは、まったく偶然の出会いからだった。 「室町砂場(むろまちすなば)」は明治2年創業で日橋に店を構える老舗、天もり発祥の歴史ある蕎麦屋である。 そして「室町砂場 赤坂店」もまた東京オリンピックの年に店を構えて、以来半世紀上にわたって伝統の味を守り続けている。 赤坂通りに並行する一奥の裏通りに木造2階建ての伝統を感じさせる店はお昼時はもちろんだが、平日の午後1時をまわってもほぼ満席で、しかもお酒をたしなんでい

    かまやつひろしと漫画家が蕎麦屋で隣り合わせたことから生まれたTVアニメ『ギャートルズ』の主題歌
    gurinekosan
    gurinekosan 2017/03/19
    "園山さんはベロベロに酔っ払って、「ハチャメチャに!もっとハチャメチャにしてくれ」(中略)ぼくが面白半分に、「チョキパラー! モギャギャー!」などと叫ぶ。すると彼は「それ、いい! 面白い!」と大喜び"
  • 『鉄腕アトム』②~ソノシートを効果的に使ったビートルズと、朝日ソノラマの独占販売で成功した「鉄腕アトム」

    Home Extra便 『鉄腕アトム』②~ソノシートを効果的に使ったビートルズと、朝日ソノラマの独占販売で成功した「鉄腕アトム」 - TAP the POP ビートルズは1963年から1969年までの7年間、オフィシャル・ファン・クラブ向けにクリスマスのメッセージ・レコードをソノシートで頒布していた。 1958年に商品化されたフォノシート(Phonosheet)は塩化ビニール製で、一般のレコードプレイヤーで聴くことができるフィルム状のレコードである。 音質はもちろんレコードとは比べものにならない貧相なものだったが、製造コストが安くて軽くて扱いやすいので、日では雑誌の付録や子供用のグッズとして広まった。 また郵送などに便利だったので、レコードの代用品のような廉価版の通販商品としても発達した。 ファンクラブの会報と同様に、ビートルズのソノシートも郵送で送られてきた。 そこにはメンバーからのメ

    『鉄腕アトム』②~ソノシートを効果的に使ったビートルズと、朝日ソノラマの独占販売で成功した「鉄腕アトム」
    gurinekosan
    gurinekosan 2017/01/15
    「レコード会社とその関係者は、誰一人として「鉄腕アトム」の商品化を思いつかなかった」「当時のレコード会社がテレビの漫画の主題歌やCM音楽などを、流行歌よりも格下のものという意識で見下していた」
  • 銀河鉄道999(The Galaxy Express 999)〜あの感動のクライマックスシーンは主題歌の歌詞に合わせて変更された!?ある世代を夢中にさせた名曲の魅力

    “ある世代”にとってはたまらなくノスタルジックな気持ちにさせられる名曲がある。 この「銀河鉄道999(The Galaxy Express 999)」も、そんな歌の一つだろう。 1979年7月1日に、当時人気絶頂だったバンド、ゴダイゴがリリースしたシングルである。 松零士のSF漫画『銀河鉄道999』を原作とした、劇場版アニメ作品の主題歌として起用されたもの。 クレジットを見れば、作詞は奈良橋陽子(英語詞)・山川啓介(日語詞)、作曲はタケカワユキヒデ、編曲はミッキー吉野と記されている。 オリコンチャート最高順位は週間2位、1979年度年間14位、当時の売り上げは60万枚を超えたヒットソングである。 この歌は“アニメ史に残る名曲”として多くの人に愛されてきた。 一体何がそんなにまで琴線に触れるというのだろう? それはこの映画を観たほとんどの人が、主題歌が流れるラストシーンの印象を強く覚えて

    銀河鉄道999(The Galaxy Express 999)〜あの感動のクライマックスシーンは主題歌の歌詞に合わせて変更された!?ある世代を夢中にさせた名曲の魅力
    gurinekosan
    gurinekosan 2016/11/20
    "参考文献『フォーク名曲事典300曲』" これ絶版だ。石森史郎シナリオ集に劇場版のシナリオ掲載されてた(買いそびれ)けど画コンテは市販されてない(市販されたのは2作目)ので変更内容わからん。
  • あなたがここにいてほしい

    『Atom Heart Mother』に『原子心母』にという邦題をつけ、『The Dark Side of the Moon』には『狂気』というタイトルをつけた日のレコード会社は、1975年に発表されたピンクフロイドの『Wish You Were Here』に『炎』というタイトルをつけた。 だがバンドは、わかりやすいサブタイトルをつけるように、という注文をつけてきたという。 確かに、それまでの邦題はイメージ先行の感が強すぎた。 『Atom Heart Mother』は原子力の心臓ペースメーカーを埋め込んだ母親のことで、『The Dark Side of the Moon』は月の暗い側、といった意味だ。 『Wish You Were Here』のジャケットに描かれていたのはふたりのビジネスマンが握手をしている様子。そしてひとりのビジネスマンは炎で包まれている。今回はイメージ先行というよりは

    あなたがここにいてほしい
    gurinekosan
    gurinekosan 2016/09/11
    海外の音楽や映画に邦題を付けるという過渡期のアレ
  • テレビからヒット曲が生まれた時代

    家庭に急速にテレビが普及し始めた1959年の3月に、日テレビ、TBS、テレビ朝日に続いて、関東4番目の民放テレビとしてフジテレビが開局しました。こうして1960年代はテレビの黄金時代を迎えます。NHKの『夢であいましょう』、フジテレビの『ザ・ヒットパレード』、日テレビの『シャボン玉ホリデー』と、伝説となった音楽番組からは、次々と新しい都会的なヒット曲が誕生しました。 そして1966年のビートルズ来日公演まで、テレビは当時の少年少女たちの音楽体験に、大きな影響を与え続けたのです。

    テレビからヒット曲が生まれた時代
  • 「シャボン玉ホリデー」のテーマ曲として永く記憶されるザ・ピーナッツの「スターダスト」

    「スターダスト」はソングライターで俳優のホーギー・カーマイケルが、1927年に発表したスウィング・ジャズのスタンダード。 ミッチェル・パリッシュにより歌詞がつけられたのが1929年のことで、その後はビング・クロスビーを筆頭に数多のヴォーカリストによっても歌い継がれていった。 フランク・シナトラ、ナット・キング・コール、ナタリー・コールと、日でも人気のあったシンガーたちがレパートリーにした。 日では1960年の『第11回NHK紅白歌合戦』では、ジャズシンガーの笈田敏夫が歌っていたという。 美空ひばりがナット・キング・コールの死を悼んで作った1965年のアルバム、『ひばりジャズを歌う~ナット・キング・コールをしのんで』のヴァージョンも有名で、今なお愛聴されている。 しかし「スターダスト」といえば、双子のザ・ピーナッツを思い浮かべる人も多い。 日テレビ音楽バラエティ『シャボン玉ホリデー』

    「シャボン玉ホリデー」のテーマ曲として永く記憶されるザ・ピーナッツの「スターダスト」
    gurinekosan
    gurinekosan 2016/06/04
    "宿泊先の帝国ホテルの部屋でカーマイケルは、テレビをつけて『シャボン玉ホリデー』を楽しんでいた。(中略)すると番組の終わりに、自分が作曲した「スターダスト」が流れてきて驚く。"
  • カッコーの巣の上で〜最後の最後で例えようのない感動が心に広がる不朽の名作

    『カッコーの巣の上で』(One Flew Over the Cuckoo’s Nest/1975) 最後の最後になって、例えようのない感動が観る者の心に広がる映画が稀にあるが、『カッコーの巣の上で』(One Flew Over the Cuckoo’s Nest/1975)は紛れもなくそんな体験ができる不朽の名作だ。 原作となったのは、カウンターカルチャーの旗手の一人ケン・キージーが1962年に発表した処女長編『郭公の巣』。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(1951)やジョーゼフ・ヘラーの『キャッチ=22』(1961)と並んで、当時の若者たちの3大バイブルの一つと言われたベストセラー小説映画化までには10数年の歳月を要した。俳優のカーク・ダグラスが権利を取得して1963年に自らが舞台で演じるも芳しくなく、チェコのプラハに赴いた際にミロス・フォアマン監督と出会う。しかしこの時は実現

    カッコーの巣の上で〜最後の最後で例えようのない感動が心に広がる不朽の名作
    gurinekosan
    gurinekosan 2016/04/13
    Amazonビデオのウォッチリストに入れたままだった…
  • 忌野清志郎さんに「スローバラード」は日本のロックの歴史に残る傑作だと思いますと言った日のこと

    2016年4月、新聞のニュースを読んでいて、忌野清志郎さんと初めて会った日のことを思い出した。 ・「忌野さんの創作ノート発見 30曲分、自信と不安抱く」(日経済新聞) 2009年に58歳で亡くなったロック歌手の忌野清志郎さんが22~24歳の時に記した創作ノートが見つかった。全30曲の一部は後のアルバムに収録されたが多くは未発表とみられる。率いたバンド「RCサクセション」が全国的に知られる前のもので、作品に対する自信の一方、世に認められるか不安を抱いていた様子がうかがえる。忌野さんの誕生日の2日から東京・原宿の喫茶店「シーモアグラス」で展示された。 ぼくが初めて忌野清志郎さんと取材で対面したのは1976年1月のことで、シングル盤の「スローバラード」が発売される21日よりも少し前だった。 事前にポリドール・レコードから渡された見盤のレコードを聴いたとき、東芝時代のサウンドとは明らかに違って

    忌野清志郎さんに「スローバラード」は日本のロックの歴史に残る傑作だと思いますと言った日のこと
  • 細野晴臣の言葉で「読書と音楽が交差した」という松本隆が選んだ作詞家の道|TAP the STORY|TAP the POP

    隆がプロのミュージシャンとして音楽活動を始めたのは1969年の2月、細野晴臣に誘われてグループサウンズの「ザ・フローラル」にドラマーとして加入した時からである。 アマチュア・バンド「バーンズ」のドラマーだった松はベースがやめた際に、立教大学にベースのうまい人がいると聞いてメンバー補充のために、直に電話をかけて細野に面会を申し込んだ。 細野が20歳の大学生、松は慶應に通う18歳の高校生、その面会が初対面となった。 <参照>・細野晴臣はジミヘンの「ファイアー」と「紫の煙」を完コピして松隆のオーデションに臨んだ 慶応大学に進んだ松が、バーンズのドラマー兼マネージャーとしてディスコのハコバンなどの仕事をしていた時、複数のバンドを掛け持ちしていた細野からフローラルに参加しないかと声がかかった。松はオーディションを受けて、正式に加入することになった。 そこからフローラルはメンバー・チェン

    細野晴臣の言葉で「読書と音楽が交差した」という松本隆が選んだ作詞家の道|TAP the STORY|TAP the POP
  • 『ミート・ザ・ビートルズ』を聴いたかまやつひろしが確信した近未来、そこから生まれたスパイダースの「フリフリ」

    それは1964年のことだった。 皇居脇にあった日比谷の三信ビル1階に、洒落たハンドバックなどのファッション小物やアクセサリー、輸入雑貨類など売ってるショップがあった。 その店には海外へ商品を買い付けに行った時に、ついでに購入してきたような輸入レコードが置いてあるコーナーがあった。 偶然に出会ったビートルズのアメリカ盤レコード『ミート・ザ・ビートルズ』を見て、かまやつひろしはハッとしたという。 彼らのビジュアル、伝わってくる雰囲気、すべてひっくるめて、あのグリニッジ・ヴィレッジの空気と同じだった。 まだ日では無名だったビートルズだが、僕はジャケットを見ただけで、彼らを一瞬にして理解した。 「これだ!」そう直感した。 かまやつひろしは1962年3月、ハワイで日系人の店がオープンするに当たってハコバンの仕事が入った時、3週間の仕事が終わってもハワイにとどまり、ロスアンゼルスに住む親戚を頼ってア

    『ミート・ザ・ビートルズ』を聴いたかまやつひろしが確信した近未来、そこから生まれたスパイダースの「フリフリ」
  • 伝説となった紅白歌合戦の「夜へ急ぐ人」~ちあきなおみとジャニス・ジョプリンの狂気|TAP the LIVE|TAP the POP

    まったく面識もなければ縁もなかったちあきなおみから、友川カズキが楽曲を依頼されたのは突然のことだった。それが1977年のことで、友川はそのとき大阪にいた。 「ちあきさん、その頃ステージでジャニスの曲も歌ってたのよ。だから、曲は意外とあっさり作れたの。ジャニスに曲書いてるような気分だったからね」(『友川カズキ独白録 生きてるって言ってみろ』より) ちあきなおみはジャジーなポップスを歌うシンガーとして、「雨にぬれた慕情」で1969年にデビューしたが、「四つのお願い」がヒットした翌年に早くもNHK紅白歌合戦への出場を果たしている。1972年には「喝采」がレコード大賞に輝き、「劇場」「夜間飛行」といったヒット曲が続いて、紅白の常連になった。 しかし、1975年に27歳になったちあきなおみは意を決して、13歳の時から15年間も所属した三芳プロを離れた。それを境にして、音楽活動における表現の幅を広げて

    伝説となった紅白歌合戦の「夜へ急ぐ人」~ちあきなおみとジャニス・ジョプリンの狂気|TAP the LIVE|TAP the POP
    gurinekosan
    gurinekosan 2015/12/29
    "歌が終わるや否や、白組司会のNHKアナウンサー山川静夫の口から「なんとも気持ちの悪い歌ですねえ」" 理解できる年齢でこれを観たかった。
  • テクノポップを全世界に広めたYMOが武道館で“散開”した日

    シンセサイザー、シーケンサー、ヴォコーダーなどの電子楽器を使ったテクノポップを生み出して、“メイド・イン・ジャパン”のポップスを世界中に知らしめたYMO。 この“Yellow Magic Orchestra (イエロー・マジック・オーケストラ)”という名称は、リーダーの細野晴臣が70年代後半に提唱していたコンセプトである「イエローマジック」が由来だという。 これは白人音楽でも黒人音楽でもない、黄色人種独自の音楽を作り上げるために掲げられた言葉である。 ベースの細野晴臣、キーボードの坂龍一、ドラムの高橋幸宏がYMOを結成したのは1978年のこと。 既に3人とも名の通ったミュージシャンだったが、リーダーの細野が自宅に坂と高橋を呼びだし、コタツで焼きおにぎりをべながら構想を語ったというエピソードがある。 結成以来5年半の間、日のみならず世界に新風を吹き込んだ彼らが“伝説的”とも言われた活

    テクノポップを全世界に広めたYMOが武道館で“散開”した日
    gurinekosan
    gurinekosan 2015/12/22
    「解散」では無く「散解」という造語はYMOだから許されたのかも。
  • アニメ作品が生んだ名曲たち「鉄腕アトム」〜作詞者・谷川俊太郎の戸惑いと驚き

    カラオケでアトムを歌って涙ぐむ中高年がいると聞いたことがあります。 子ども時代、青春時代を懐かしむ気持ちなのでしょうが、アトムという存在そのものが、哀しみと言うしかない何かを負っていることを、現代文明を生きる私たちが心のどこかで感じているからではないでしょうか。(詩人・谷川俊太郎) ♪TVアニメ版の第一話:オープニング主題歌に歌詞がついていないバージョン これは“漫画の神様”と呼ばれた手塚治虫の代表作『鉄腕アトム』が、1963年にTVアニメ版として登場した当時の話である。 初回放送には歌詞が間に合わずに伴奏だけのバージョンが流れてており、第10話くらいから歌詞付きの歌に差し替えられたというから驚きだ。 昭和生まれの世代ならば、このメロディーを“耳にしたことがない人はいない”といっても過言ではないだろう。 そんな歴史的名曲の作詞を手掛けた詩人、翻訳家、絵作家、脚家の谷川俊太郎は、当時のこ

    アニメ作品が生んだ名曲たち「鉄腕アトム」〜作詞者・谷川俊太郎の戸惑いと驚き
    gurinekosan
    gurinekosan 2015/11/22
    "(作詞の著作権使用料を)お金に苦労している虫プロからこんな額(一億)をもらう訳にはいかないと思って、思い切って50万円の買い取りでどうか?と提案したら、あっさり払ってくれました。"
  • 大瀧詠一が“命がけ”で挑んだ一度限りのはっぴいえんど再結成

    1985年の6月15日、旧国立競技場で開催された『国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW』。 日もすっかり暮れた頃、西日の差し込むステージに登場したのは大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂、松隆の4人によって、12年ぶりの再結成を果たしたバンド、はっぴいえんどだった。 オールナイトニッポンのドラマ『俺たちがはっぴいえんどだ』では、再結成に至る経緯が語られているが、簡潔にまとめれば次のようになる。 「All Together Now」のチーフ・プロデューサーを務めていたニッポン放送の亀渕昭信は、出演してくれるミュージシャンを集めようと奔走していた。 そしてイベントを成功させるために、是非とも大瀧詠一に出演してほしいと考えて、福生にある大瀧の自宅を訪ねた。 ところが「当分ライブはやりたくないんだ」と、あっさり断られてしまった。 その日の夜、大瀧が自宅スタジオを掃除していて見つけたのは、はっぴ

    大瀧詠一が“命がけ”で挑んだ一度限りのはっぴいえんど再結成
  • 「銀河一のアイドルのデビュー曲を作ってください」と菅野よう子からオファーされた松本隆

    隆トリビュートアルバム『風待ちであひませう』を手にして、制作に携わった人たちの思いが伝わってくるブックレットのなかで、詩人の最果タヒさんが書いた素敵な文章に出会った。 松隆の言葉は、歌われること、そしてそれを聴く人がいることを、知っていて、そうして生まれてきたものだった。だから、聴いていると、歌っていると、言葉がとてもしあわせそうに生きて、歌って、踊っている。 書かれてあるそれらの言葉、活字のリズムにハッとして嬉しくなった。確かに『風待ちであひませう』は最初から最後まで、どの曲も言葉がとてもしあわせそうに生きて、歌って、踊っているアルバムだった。 なかでも3曲目に入っていた「星間飛行」は、クラムボンの創りだしたサウンドと原田郁子のみずみずしいヴォーカルによって、オリジナルとは異なる風が感じられた。 アニメ『マクロスF(フロンティア)』の劇中で、瞬く間にシンデレラ・ストーリーを駆け上が

    「銀河一のアイドルのデビュー曲を作ってください」と菅野よう子からオファーされた松本隆
  • 日本のエレキギター・レジェンド、 田端義夫が生き抜いた時代

    エレキ・ギターを横抱きに、拳を天に突きあげ、「オース!」。 トレードマークともなったパフォーマンスでステージを湧かせた人物が2013年4月25日にこの世を去ってから数週間後、おいかけるように一映画が劇場公開された。タイトルは『オース!バタヤン』。 2005年からおよそ8年がかりで、田端義夫を追いかけた音楽ドキュメンタリーである。 画面に登場する顔ぶれを見るだけで、彼がいかに幅広いジャンルの人々に愛されてきたかがつぶさに伝わってくる。 寺内タケシ、小室等、憂歌団、ミッキー・カーティス……。 フォークやロックの世界でも、バタヤンの愛称で深く畏怖されてきた理由はただひとつ。彼こそが、日のエレキ・ギター・レジェンドだったからである。 「なにせ、エレキ・ギターを持って歌いはじめたのは、マディ・ウォーターズより先なんだから…」 というコメントが気になって、資料にあたってみると、シカゴに移住したマ

    日本のエレキギター・レジェンド、 田端義夫が生き抜いた時代
  • いつまでも鳴り響くナイアガラ~大瀧詠一特集

    大瀧詠一さんがこの世を去ってからまもなく1年、ベスト・アルバムやコンピレーションがリリースされて、残された作品の数々は忘れられるどころか、ますます輝きを増していくように思えます。 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ 万葉集に残された和歌は、こうも読み取れます。 大きな瀧の音楽はもう新たに生まれることはないが、ナイアガラの音楽は今もしっかり聞こえている‥‥。 大瀧さんが残した素晴らしい楽曲の数々が、この先もずっと歌い継がれることを願い、TAP the POPでは書き下ろしも含めて、コラムをまとめて特集したいと思います。

    いつまでも鳴り響くナイアガラ~大瀧詠一特集