地震で「潮目が変わった」 「電力マフィアの頭目」と綽名される嶋田隆首相秘書官(1982年旧通商産業省)と結託して岸田文雄政権を操り、政府のエネルギー政策を「脱原発」から「原発推進」に大転換させた経済産業省。 ロシアのウクライナ侵攻に伴う原油・天然ガス供給不安の高まりや、地球温暖化防止のための脱炭素化の取り組み強化にかこつけて、昨年には、60年超の運転容認など既存原発の再稼働推進や原発のリプレース(建て替え)を国の正式な方針に位置付けさせた。 村瀬佳史・資源エネルギー庁長官(1990年同)ら幹部は「フクイチ(東京電力福島第一原発)事故の呪縛からやっと解き放たれた」(資源エネルギー庁幹部)などと溜飲を下げていた。 だが、好事魔多しとはよく言ったもので、元日の能登半島地震をきっかけに、「原発復権路線」の旗色は急速に悪くなっている。北陸電力の志賀原発(石川県志賀町)は運転休止中だったことも幸いし重
三淵嘉子が生きた時代 三淵嘉子の生まれた大正3年(1914)は、第一次世界大戦勃発の年です。続く第二次世界大戦後は、男女平等が宣言され、さまざまな分野に女性が進出。男性圧倒的優位の世の中で、女性の自立の先駆けとなるべく奮闘します。やがて高度経済成長期を迎え、豊かになった反面、少年事件の増加が問題視されるようになりました。 三淵嘉子の生涯と主な出来事 三淵嘉子は、大正3年(1914)11月に生まれ、昭和59年(1984)に没しました。その生涯を主な出来事とともに辿ってみましょう。 父の思想に影響を受け法学の道を志す 三淵嘉子は、大正3年(1914)、台湾銀行勤務の武藤貞夫とノブの長女としてシンガポールに生まれます。貞夫は東京帝国大学(現・東京大学)を卒業後、台湾銀行のシンガポール支店、ニューヨーク支店を経て、大正9年(1920)には東京支店勤務となり、一家は渋谷区で暮らすこととなりました。
水俣病の被害拡大はなぜ止められなかったのか 発生源対策を行わない企業、それを後押しした国の関係性 法学部全ての方向け政治経済文化 Tweet 日本の「公害」を紐解く上で、避けて通れないのが熊本県水俣市で起こった「水俣病」の集団発生である。1956(昭和31)年に公式発見されたこの公害は、今も「水俣病」であると認められることを望む患者が後を絶たないなど、60年以上経っても、本当の収束には至っていない。 前回の記事:「鉱害事件の事態収拾のために沈められた村」 「水俣病をめぐる問題が長期化した理由は、『加害者の振る舞い』が稚拙だったことに尽きます。つまり、加害者が行うべき『被害者の救済』と『発生源対策』について、きわめて対応が不十分でした。その背景には、当時の国策や地域の環境も影響していたといえます」 こう指摘するのは、國學院大學法学部の廣瀬美佳(ひろせ・みか)教授。世界的な公害事件として知られ
当時、ラジウムの価格は1グラム約10万ドル。「ラジウム成金」まで生まれるブームの一方、膨大な数の被曝者が出たのは悲劇というべきか。ラジウムを扱う工場労働者や医療関係者には白血病などで亡くなる人が相次いだが、多くは梅毒や敗血症と診断された。 放射能が人体に害をもつことは1920年代には少しずつ解明されていくが、マリー・キュリーは、自身の体調不良が放射線によるものとは決して認めなかったという。だが、彼女も1934年に再生不良性貧血で亡くなってしまう。 「マリーが遺した研究ノートは放射能まみれで、いまでも触るのは危険だといわれています。晩年は放射線で目に障害を起こし、弟子の大学院生が持ってきたグラフが二重に見えるような状況でした」(安斎氏) 暗黒の歴史が始まった 放射性物質を発見して得た名誉。しかし、彼女はその代償として、放射能で命を落としてしまう。人類にとって危険をもたらす放射能を発見してしま
【特別企画】思い出せ! 安倍首相は福島原発事故の主犯だった!(後) 安倍首相ら“フクシマの戦犯”は責任追及からどう逃げたか? 捏造攻撃、スラップ訴訟も 前回の原稿で、第一次政権の2006年、安倍首相が国会で福島原発事故と同じ「全電源喪失」事態が起きる危険性を指摘されながら、「日本の原発でそういう事態は考えられない」という答弁書を提出。非常用電源に関する地震対策を拒否していた事実を指摘した。安倍首相こそが“フクシマの戦犯”だった、と。 ところが、当の安倍首相はこの無責任デタラメ答弁の問題をほとんど追及されないまま、責任を取らずに逃げおおせてきた。これはいったなぜなのか。 実は、下野していた自民党で安倍が総裁に返り咲いた直後の2012年10月、「サンデー毎日」(毎日新聞社)がこの事実を報道したことがある。1ページの短い記事だったが、本サイトが指摘したのと同じ、共産党の吉井英勝衆院議員(当時)の
"Son, they shook... 'cause ain't no such things as halfway crooks scared to death, scared to look, they shook" - Mobb Deep, "Shook Ones Pt2"
2012年1月6日に開催されたうぶこえトーク「Shing02『僕と革』&『僕と核』報告会二本立てin 仙台」の記録です。この映像では、報告会で行われたShing02氏によるレポート「僕と核2012」をまとめました。 「僕と核2012」は原子核だけではなく、細胞の核についてもまとめられていて、ホームページには詳細な図や資料・テキストなどが掲載されています。 http://www.e22.com/atom2/ Shing02 MC/音楽家=ジャーナリスト 2006年『STOP ROKKASHOプロジェクト』を坂本龍一氏の誘いを受けて参加。自身HPでレポート『僕と核2006』発表。『ミツバチの羽音と地球の回転』(2010)、『内部被ばくを生き抜く』(2012、鎌仲ひとみ監督)の音楽を担当。一貫して原子力に対して警鐘を鳴らし続けて来た。最新版レポート『僕と核2012』を発信し続ける一方、ele
原子のムラ 【第1部 東海村に火灯る】 (11) 茨城と正力をつなぐ糸 旧満州開拓移民の指導者で「満蒙開拓の父」と呼ばれた加藤完治は、正力松太郎と後々まで親交をもった 原子力研究所の東海村設置は政治力の賜(たまもの)――初代原子力委員長、正力松太郎の秘書を務めた前衆院議員の萩山教厳(79)は、そう述懐する。 正力と共に戦前、警視庁で共産党員摘発にあたった津澄村(現行方市)出身の衆院議員大久保留次郎は1966年、故郷で開かれた叙勲祝賀会の席で、誇らしげに語っている。 「東海村へ原子力研究所を設置することになったのは、私が友人であった正力松太郎氏に申し入れたからである」 大久保の長男一郎は草創期の原研に入所、後に技術情報部長、監事も務めた。 正力と茨城をつなぐ糸は、誘致を争った群馬や神奈川よりも確かに太く、幾重にも織りなされていた。 水戸市内原町に、農業を志す青少年を養成する日本農業実践学園が
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