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歴史に関するh0z8のブックマーク (2)

  • 【禁門の変(蛤御門の変)】なぜ長州藩は朝敵となったのか?

    史の中でも特に関心を集めている明治維新から150年が経ちました。薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍が旧幕府軍に勝利し、明治維新を成し遂げたことは多くの方が知るところでしょう。しかし、この薩摩藩と長州藩がもともとは非常に仲が悪かったことをみなさんはご存知でしょうか。 今回は、幕末維新史における重要な事件であり、薩摩と長州の関係を悪化させるきっかけとなった「禁門の変(蛤御門の変)」についてご紹介していきます。 禁門の変とは? 元治元年(1864)7月19日、尊王攘夷を掲げる長州藩と、会津藩・薩摩藩を中心とする幕府勢力が、京都御所で激突しました。これが「禁門の変」です。激戦地の地名を取って「蛤御門(はまぐりごもん)の変」とも呼ばれるこの戦いは、京都市中の約3万戸が焼かれる市街戦にまで発展しました。 開戦当初は長州藩が戦いを有利に進めていましたが、西郷隆盛率いる薩摩藩の参戦により戦局は一気に逆

    【禁門の変(蛤御門の変)】なぜ長州藩は朝敵となったのか?
  • 迫害を逃れて海を渡った。長崎・五島、潜伏キリシタン移民の子孫が語り継ぐ差別、戦争、信仰の記憶|ニッポン複雑紀行

    大小140あまりの島々が連なる長崎県の五島列島。ペトロ尾上勇(おのうえいさむ)さんはその北部に位置する中通島(なかどおりじま)で生まれ育った。キリスト教徒であり、一人の漁師として生きてきた。「ペトロ」は洗礼名だ。 尾上さんは江戸時代のキリシタン禁制下でも信仰を守った「潜伏キリシタン」を先祖にもつ。江戸後期の18世紀末、多くのキリシタンたちは当時の迫害を逃れて、九州の外海(そとめ)地方(現・長崎市の北西部に位置)を離れ、たくさんの小舟で海を渡った。五島の島々に新天地を求めたのだ。 離島への大規模な移住には政治的な背景もあった。未開の土地を開拓する人手を欲しがった五島藩が、逆に人口が増えすぎて困っていた九州土の大村藩に協力を求めたと言われる。その結果、3000人もの移民が五島を目指したが、その多くが潜伏キリシタンだったのだ。 2018年に世界遺産となった潜伏キリシタン関連資産が、九州土だけ

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