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ブックマーク / rekijin.com (2)

  • 【禁門の変(蛤御門の変)】なぜ長州藩は朝敵となったのか?

    史の中でも特に関心を集めている明治維新から150年が経ちました。薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍が旧幕府軍に勝利し、明治維新を成し遂げたことは多くの方が知るところでしょう。しかし、この薩摩藩と長州藩がもともとは非常に仲が悪かったことをみなさんはご存知でしょうか。 今回は、幕末維新史における重要な事件であり、薩摩と長州の関係を悪化させるきっかけとなった「禁門の変(蛤御門の変)」についてご紹介していきます。 禁門の変とは? 元治元年(1864)7月19日、尊王攘夷を掲げる長州藩と、会津藩・薩摩藩を中心とする幕府勢力が、京都御所で激突しました。これが「禁門の変」です。激戦地の地名を取って「蛤御門(はまぐりごもん)の変」とも呼ばれるこの戦いは、京都市中の約3万戸が焼かれる市街戦にまで発展しました。 開戦当初は長州藩が戦いを有利に進めていましたが、西郷隆盛率いる薩摩藩の参戦により戦局は一気に逆

    【禁門の変(蛤御門の変)】なぜ長州藩は朝敵となったのか?
  • 【有能な水戸藩士が犠牲に…】幕末最大の悲劇・天狗党の乱

    「水戸学」という思想体系を背景に、幕末の尊王攘夷運動の先頭に立っていた水戸藩。ところが、明治政府の重要ポストに、藩出身者の姿を見ることはありませんでした。吉田松陰や西郷隆盛にも影響を与えた水戸藩が、なぜ往時の勢いを失ってしまったのか。その大きな原因となった、幕末最大の悲劇ともいわれる天狗党の乱についてご紹介します。 天狗党の乱を描いた浮世絵。豊原国輝筆「近世史略 武田耕雲斎 筑波山之圖」。 水戸藩の尊攘志士・天狗党 「天狗党」とは、幕末期の水戸藩で活躍した尊王攘夷派のことを指します。 では、なぜ「天狗」なのかというと、8代藩主・徳川斉昭が天保期(1830~44)に藩政改革を実施した際、改革反対(保守)派が、改革派の藩士を非難したことがきっかけでした。改革派の藩士には身分の低い武士が多かったことから、「成り上がり者が天狗になって威張っている」という軽蔑の意味を込めてつけられた名称ともいわれて

    【有能な水戸藩士が犠牲に…】幕末最大の悲劇・天狗党の乱
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