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ブックマーク / kenmogi.cocolog-nifty.com (10)

  • 茂木健一郎 クオリア日記: いわゆる研究費「流用」の報道について

    今朝の朝日新聞に、阪大の研究室が550万円の研究費を「流用」したという記事が出ている。 まるで「風物詩」のように、時々このような記事が出る。その度に、私は二つのことを考える。日の「官」 の杓子定規の駄目さ加減と、日の新聞の浅薄さである。特に後者はジャーナリズムの名に値しない。 中には、真に悪質なケースもあるかもしれない。しかし、大抵の場合、研究費の「流用」として報じられるのは、日の文部科学省、JSTなどの研究費が余りにも使い勝手が悪いことの副産物に過ぎない。 たとえば、秋葉原に行って、実験に必要な器具を臨機応変に現金で購入するということができない。「費目」というのが決められていて、異なる費目に使えない。研究というものは、流動的なもので、当初のもくろみとは異なることにお金を使う必要があることもある。むしろ、そのような研究の方が、ドラマティックな進展が見られることが多い。しかし、予算申請

    haseharu
    haseharu 2010/08/18
    「研究費の「流用」として報じられるのは、日本の文部科学省、JSTなどの研究費が余りにも使い勝手が悪いことの副産物」
  • 茂木健一郎 クオリア日記: ツイッター私塾

    ツイッター私塾 インターネットの発達により、学術情報自体は、ネット上にふんだんに存在する時代になった。誰でも無料で多くの情報に接することができる。そのような時代には、「大学」の役割は変化する。情報そのものではなく、「人」が重要な資源となる。 人の知性の総合性は、アルゴリズム・ベースの人工知能で書くことができない。それは、生身の人間がその肉体の中に持つ体系性の中に提示されるしかない。大学の役割は、すぐれた教員、すぐれた友人との出会いだろう。 生の有機的体系性の重要さを一歩進めると、「私塾」の思想となる。大学とは、私塾の集まりであると言ってもよい。幕末、多くの私塾が有為の人材を輩出した。松下村塾、適塾など。 しばらく前に、「私塾」をやりたいなと思った。しかし、時間的にも、場所的にも、なかなか難しいものがあった。一番の困難の一つは、どのようにして人を「セレクト」するかである。誰でも入れるオープン

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 聖なる集中

    インターネットの普及によって、人々は、「拡散的思考」には慣れているように思う。 あるキーワードで検索すると、あるものが引っかかってきて、その連想で、次から次へとリンクを辿っていく。 あるいは、twitterのタイムラインをチェックしてみる。携帯のメールを見る。 そのような拡散的なモードは大事だけれども、一方である一つのことに深く集中し、沈潜していくモードも大切である。 深く集中する時には、思い切ってリンクを切って、孤立しなければならない。孤立と拡散のコントラストこそが、ダイナミクスのバランスを回復する。

    haseharu
    haseharu 2010/04/11
    徹底的にひきこもることの必要性。「深く集中する時には、思い切ってリンクを切って、孤立しなければならない。孤立と拡散のコントラストこそが、ダイナミクスのバランスを回復する。」
  • 茂木健一郎 クオリア日記: twitterがでてきて、ブログの見え方が変わった。

    あまりにもスパムが多いので、ブログのコメント、トラックバック欄をしばらく前に廃した。おかげで、朝の負担が減って、その分他のactivityができるようになった。時に応じてdecouplingすることの大切さが身にしみた。フィルターのために、スパムにも目を通してパターン認識すること自体が心理的負担となっていたのである。 twitterのRetweet, Replyの特徴は、tweetの直後が多いことで、これは、timelineで流れていってしまうということと関連しているだろう。つまり、twitterは、buzzをつくり出すメディアである。 twitterがでてきて、ブログの見え方が変わった。エントリーの仕方が、少しtwitterに近づいてきたように感じる。 ブログは、うまく変化し、進化しないと、感覚的に時代遅れのメディアになってしまうかもしれない。かつて、メルマガ、メーリングリスト、掲示板

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 「科学」と「学習」

    学研の「科学」と「学習」が4月から休刊になるという。 これまでの「科学」と「学習」の歩みを振り返るを作る。 そのように新屋敷信美さんからメールを頂いて、学研社にうかがった。 吉村栄一さんがいらしたので、びっくりして、「あれ、ヨッシーだったんだ」と思わず叫んだ。 「科学」の付録には、いろいろな思い出がある。 小学校の校門を出て、すぐ横の家で「科学」を受け取ると、真っ先に付録を見た。 青写真、砂鉄、ロボット、風船ロケット、シーモンキー、・・・・ 当時の頁をめくっていると、子どもたちの好奇心をいかに大きな広い科学の世界につなげるかという熱意が伝わってくる。 今日では、子どもたちの学習に関する世間の関心は、すっかり、学校に入るための「受験」に絞られていってしまった。 そこからは、そもそも知性とは何か、これからの時代に必要な世界観、教養とは何かという大きなヴィジョンが失われている。 受験対策とい

    haseharu
    haseharu 2010/02/23
    「そこからは、そもそも知性とは何か、これからの時代に必要な世界観、教養とは何かという大きなヴィジョンが失われている。」
  • 茂木健一郎 クオリア日記: ずっと「北極星」のごとく

    『プロフェッショナル 仕事の流儀』の収録。ゲストの上田泰己さんとお話していて、とても驚いた。 上田さんも僕も、生理学者の江橋節郎さんの「孫弟子」だったのだ。 上田さんが、東京大学医学部の飯野正光さんのところに行った時、「うちは放牧するから」と言われ、飯野さんに御世話になることに決めたのだという。 学問というものを広々ととらえ、大きく構えて質を追究していく。江橋先生のお人柄がなつかしく偲ばれる。 今日では、情報自体はインターネット上にいくらでも存在する。 だから、独学しようとすれば、インターネット上でそれは可能であって、大学などの組織に行く必要はない。 問題は、人柄からしか感化されないものがあるということ。 これは、その生身の人に接して、その人の発する言葉、節々に示される考え方によっていきいきと動かされるしかない。 つまり、このウェブ時代に最も希少なものは、「師」とあおぐ人に直接接する機会

    haseharu
    haseharu 2010/02/12
    「問題は、人柄からしか感化されないものがあるということ。 これは、その生身の人に接して、その人の発する言葉、節々に示される考え方によっていきいきと動かされるしかない。」
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 標準化しようとすると、かえって生命運動としての本質が

    生きていく中で時々ふと、河合隼雄先生とお話した時のことを思い出す。京都のクリニックで、箱庭を観て頂いた後に、お好きなフルートを吹くというその部屋で向き合った。 河合先生いわく、箱庭は実際に効果がある。そのことは経験からわかっている。しかし、通常の手続きをとって、科学的な意味で実証しようと思ったら、さまざまなことを「標準化」しなければならない。 例えば、砂の量、色。箱の大きさ、材質。何よりも、箱庭に並べるアイテムの種類、数。そのようにして環境を標準化して、繰り返し実験してデータをとり、そうして統計を見なければ、通常の意味での「科学」とはならない。 ところが、箱庭療法の実際は、一回性の塊である。河合先生のクリニックにある人形や、木や、石の類は、訪れる人がお土産に持ってくるものも多い。いわば、「オープン・システム」。その内容を制御しようも、指定しようもないのだ。 箱庭を作る被験者の状態や、過去の

    haseharu
    haseharu 2010/02/03
    河合先生
  • 茂木健一郎 クオリア日記: とにかく、最初の噴火のマグマがなければ

    haseharu
    haseharu 2010/02/01
    ときどきextremeな考えを。
  • 茂木健一郎 クオリア日記: いかにして人間をつくるか

    『プロフェッショナル 仕事の流儀』の収録に、香川県の観音寺で定時制高校の先生をされている岡田倫代さんがいらした。 自分に自信が持てない、自己肯定感の低い子どもたちがいるという。「私なんてどうせ」「ぼくなんか」と言う子が多いのだという。そのような子どもたちに、どうやって自己肯定感を持たせるか、それがまず最初の仕事なのだという。 ぼくは思った。自己肯定感がなく生まれてくる人間など、一人もいない。子どもたちは、自分はできる、チャレンジしようという根拠なき自信を持っている。 そんな子どもたちが、小学校、中学校と通ううちに、いつしか「ぼくはダメだ」「私なんて」となっていくとすれば、それは人たちのせいではなく、教育システムの失敗と言えよう。 人間ができれば、勉強は後からついてくると岡田さんは言われる。その通りだろう。やる気さえあれば、勉強するための素材は、もはやインターネット上に無料であふれている。

    haseharu
    haseharu 2010/01/29
    「 学術情報は、もはや無料でころがっている。問題は、それに向かう人間力である。」
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 電子出版の動き

    新潮社で仕事。それから、Brusselsで話をした。北壮さん、葛岡晃さん、金寿喚さんといったおなじみの顔ぶれ。 話題の一つが、電子出版の動きだった。Amazon KindleやSony e-book reader, 発表間近のAppleのtabletなど、ここのところ電子的にを配信し、読む動きが加速化している。 出版の未来はどうなるのか。私が心から尊敬する編集の方々の顔を眺めながら、この人たちの役割がなくなることはないだろうと思った。 は、ただ自分一人で書けば良いというものではない。企画をどう立てるか。客観的に見て、どのような文脈にそれは入っていくのか。内容に誤りはないか。著者と編集者がさまざまなやりとりをする中で、初めてが形をなしていく。 著者だけだと、どうしてもモノローグになる。もちろん、理念的には、熟達した著者が編集者の役割も自ら兼ねて仕事をしていくということは考えられるが、

    haseharu
    haseharu 2010/01/24
    mogiken。「本を作るということは、つまりは「ものづくり」の側面がある。質を高めるためにも、editorialの仕事は消えることがないだろう。」
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