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ブックマーク / dain.cocolog-nifty.com (69)

  • 人形を考えることは、人間を考えることである『人形論』

    これ面白かった! わたしの興味の真ん中を貫くのみならず、「人間とは何か」を考える上で、新しい導線を示してくれるスゴ。 一言なら「人形の哲学」。人形に寄り添って、それを愛でる人間にも触れつつ、人間との関係性の上で「人形とは何か」を理論化しようとする。冒頭で著者自身も告白する通り、人形ワールドはあまりに広く深く多様であり、単一の質に収斂することはない。これは、読み手の「人形体験」に応じて首肯いただけるだろう。 わたしの場合、最も強烈だったのが、松丸舗で球体関節人形に会ったとき(清水真理の人形だった)。書棚の一角の透明なケースに収められた”彼女”を見たとき、沸いてきたものを言葉にするのは難しい。美しさ、愛らしさ、醜悪さといった言葉をどんなに尽くしても、言語だけでは捉えきれない。『人形論』の著者・金森修は、その言葉で介入できない「何か」を承知の上で語ろうとする。 まず、人形歴史を振り返り、

    人形を考えることは、人間を考えることである『人形論』
  • コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。』

    「嘘つきは経済学者の始まり」という諺があるが、コンサルタントも入れるべき。 中の人として働いたことがあるので、その手法は分かってる(まとめ:[そろそろコンサルタントについて一言いっておくか])。だから書は、徹頭徹尾、黒い笑いが止まらない。騙される幹部が悪いのだが、振り回される社員はたまったものではない。ファームであれジコケーハツであれ、理論武装を「外」に求める人は、予習しておこう。あるいは、コンサルティングを「説得の技術」と捉え、逆にそこから学ぼう。 書は、マジシャンが種明かしするようなもの。コンサルタントの方法論である「適応戦略」や「最適化プロセス」「業績管理システム」は、役に立たないどころか、悪影響にもなると暴きたてる。著者は経営コンサル業界で30年も働いて、いいかげんこの「お芝居」にウンザリして、懺悔の名を借りた曝露を出したという。その具体例が生々しい&おぞましい&あるある。

    コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。』
  • パラダイムシフトの情報史 『情報技術の人類史』

    美は眺める者の眼中にあり、情報は受け手の脳内にある。 一筋の煙や電気インパルスに込められた「情報」を「意味」に転じるには、人の介在を必要とする。古代、近代、現代の情報と通信の技術を経巡ることで、人が「意味」をどうやって進化させてきたかが分かる。伝えたい内容・残したい質である、意味を見える化したものこそが、情報なのだ。 アフリカのトーキング・ドラムに始まり、文字の発明、辞書製作、蒸気計算機や通信技術の開発、遺伝子解読や量子力学と情報理論の結合まで、「情報」を操る数多くのエピソードを縦横無尽に紹介する。膨大な量と深さに溺れそうになるが、「新たな情報技術に接したとき、人はどう変化したか」という軸で読むと、人間の思考の変質の歴史になる。これは、おもしろい。 たとえば電信は、「天気の概念」「時間の概念」を一変させた。電信のおかげで遠隔地の状況が分かるようになったからだ。人々は天気のことを、土地ごと

    パラダイムシフトの情報史 『情報技術の人類史』
  • 鬱 に 効 く 映 画 『シネマ・セラピー』

    ダウナーなときは寝るに限る。三時に覚めたらどうするか? アルコールは感情の増幅剤だから控える。集中しない(したくない)ので、はお守り代わり。図鑑や手記など、断片で読めるものにして、うっかり“何かを思い出す”ことのないよう、小説は避ける。岩波青か、講談社学術文庫がいい、『自省録』『ガリア戦記』『言志四録』が鉄板。考えないための読書。 ところが書は、映画を提案する。精神科医が選んだ、適切な映画を観ることで、「死にたい」気持ちがほぐれてくるという。当か?意識を向ける必要がある映画は、ダウナーなときには向いていないと思っていたのだが……著者によると、自殺を客観的に捉え、遺される人を考えたりする上で新たな視点を提示してくれるのが、これらの映画なのだと。 著者は精神科医。自殺の実態や危険因子を解説したあと、自殺にまで追い詰められた人の心理をレポートする。さらに、「自殺したい」と打ち明けられたらど

    鬱 に 効 く 映 画 『シネマ・セラピー』
  • 『レトリック感覚』と『レトリック認識』はスゴ本

    使い慣れた道具の構造が分かり、より効果的に扱えるようになる。これまでヒューリスティックに馴れていた手段が、一つ一つ狙い撃ちできるようになる。こいつ片手に、そこらのラノベを魔改造したり、漱石や維新を読み直したら、さぞかし楽しかろう。 レトリックというと、言葉をねじる修飾法とか、議論に勝つ説得術といった印象がある。もちろんその通り。アリストテレスによって弁論術・詩学として集大成され、ヨーロッパで精錬された修辞学は、言語に説得効果と美的効果を与える技術体系だ。 だが、「技巧や形式に走る」といって、棄ててしまったのが現代なのだと弾劾する。ものには名があるから、妙に飾らないで、名で呼ぶのがいい……そんな俗物的な言語写実主義の教訓が、私たちの楽天的すぎた科学主義=合理主義=実用主義と混ぜこぜになって、言語感覚を狂わせたのだという。 できあいの言語をじゅうぶん便利なコミュニケーションの道具と信じ、形

    『レトリック感覚』と『レトリック認識』はスゴ本
  • 「この世で一番おもしろいマクロ経済学」で見晴し良好

    経済音痴のわたしに最適な一冊。 そして、素朴な疑問「経済学者はバカなのか」に対する解答が得られた。その答えを言おう、経済学者はバカではない。むしろ利口な方なのに、バカと呼ばれているだけなんだ。 つまりこうだ。マクロを取り巻く知見が不安定なのは、経済の性質について相反する主張があるから(書では、経済を「円満な家庭」と見なす派閥と「崩壊家庭」と考える派が対立する)。政府の役割についての意見も違う。政府とは、成長と安定を促す「よい親」と考える人と、「悪い親」だから手出しするなと主張する人が、これまた争う。 それぞれ信じるイデオローグに固執し、互いが互いをバカ呼ばわりするからややこしくなり、岡目八目、経済学者は何なの? バカなの? という話になるのだ。書では、それぞれの「宗派」を両論併記で並べているため、一瞬混乱するかもしれない(幾度「どっちやねん!」とツッコミを入れたことか)。 だが、『そう

    「この世で一番おもしろいマクロ経済学」で見晴し良好
  • 魔法少女のガチバトル「魔法少女育成計画」

    どうしたらプリキュアになれるか? ずっとわたしを悩ませて続けてきた。ずば抜けた身体能力を持ち、格闘戦に長け、必殺の癒し砲を放つ伝説の戦士。ご町内の困った人を助け、ご近所の平和を守る、魔法少女に、俺はなる!決心してから幾年月たったことか。 ところが、娘があっさり答えを出す。しれっと「こないだの映画で一緒に観たじゃん」とまで言う。プリキュアオールスターズの名台詞のこれだろう───「誰かを守りたい、その心が女の子を強くする」。そして、あなたがプリキュアになるための5つの方法を見ると、わたしだって可能性はある。 だが問題は残る。プリキュアになって、俺は何をするのか? 魔法少女になることで、いや、その契約をすることが、いったいわたしの生活が、運命が、どう変わってゆくのか? 答えは書にある。殺し合う魔法少女16人のどこかに、わたしがいる。試したいのだ、己が力を。超人的な力を手にしたら、やってみたくな

    魔法少女のガチバトル「魔法少女育成計画」
  • ボルヘス好き必読「ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語」

    さらりと読んで後悔、極上のケーキを一口でべてしまった。 なので、これを読む方はよく味わってほしい。【ボルヘス級】といえば分かってもらえるだろうか。3つの短篇を編んだ、とても薄い、極上の奇譚集だ。読むのがもったいないくらい。 簡潔な文体で異様な世界を描く作風は、ボルヘスやコルタサルを期待すればいい。だが、書の異様さはこの現実と完全に一致しているところ。ボルヘスの白昼夢をリアルでなぞると、この物語りになる。 そうこれは「物語り」なのだ。最も面白い物語りとは、うちあけ話。最初の「ティーショップ」では、聴き手の女の子と一緒に、物語に呑み込まれて裏返される"あの感じ"を堪能すべし。そこでは聴き手が語り手となり、語り手が聴衆と化す。物語りは感染し、連環する。 ラストで彼女がとった行動に、一瞬「?」となるが、直後に鳥肌が走る。独りで読んでいるのに、周囲の空気が自分に集まってきて、世界に観られている感

    ボルヘス好き必読「ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語」
  • 安くて強くて猥雑で「東京右半分」

    写真の質は「覗き」だ(と思うぞ)。 きれいなお姉さんをナマで見つめることはできないし、立入禁止の場所を見ることは許されないが、写真なら可能だ。写真は、こうした見る欲望を満足させてくれる。書では、普段見れない・知らない・許されない東京を、思う存分「覗く」ことができる。 しかも、東京の右半分に限定だ。渋谷ではなく浅草、銀座じゃなく赤羽、麻布よりも錦糸町だそうな。なぜ? それは、書き手/撮り手である都築響一が喝破する。 古き良き下町情緒なんかに興味はない。 老舗の居酒屋も、鉢植えの並ぶ路地も、どうでもいい。 気になるのは50年前じゃなく、いま生まれつつあるものだ。 都心に隣接しながら、東京の右半分は家賃も物価も、 ひと昔前の野暮ったいイメージのまま、 左半分に比べて、ずいぶん安く抑えられている。 現在進行形の東京は、 六木ヒルズにも表参道にも銀座にもありはしない。 この都市のクリエイティブ

    安くて強くて猥雑で「東京右半分」
  • 安くて野蛮でやたら旨い「檀流クッキング」

    「安くて旨い料理教えろ」というトピックに最適な一冊。 レシピは親切だけど、信頼するのはクチコミになる。掲示板やコミュニティでかじったレシピを頼りに、すばらしくうまい一皿を作ったことが何度もある(ピェンロー鍋とかアンチョビソースのパスタとか)。嬉しいのは、ただ簡便なだけでなく、「ここだけ肝心」「これはこだわる」といった、ポイントを突いているところ。 書はそんなキモが並んでいる。しかも、完全分量度外視の原則を貫き、アミノ酸至上主義をせせら笑うレパートリーが並んでいる。「塩小さじ1/2」みたいな科学調味料的態度を突き抜けて、塩の量がいかほどと訊かれたって、答えようがない、君の好きなように投げ込みたまえ、と言い切る。 それでも、「ゴマ油だけは、上質のものを使いたい」とか、「暑いときは、暑い国の料理がよろしい」のように、妙な(だがスジの通った)こだわりが出てくる。おそらく、ない材料はなくて済ませ

    安くて野蛮でやたら旨い「檀流クッキング」
  • 完璧な短篇、完璧な短篇を書くための十戒「美しい水死人」

    「これを読まずしてラテンアメリカ文学を語るなかれ」と強力にプッシュされる。なるほど、「全部アタリ」「珠玉の」という形容がピッタリの傑作選(Motoさんありがとうございます)。 短篇の名手といえばポーやチェホフを思い出すが、コルタサルやオクタビオ・パスは、そうした名人をベースに、まるで違う世界を紡ぎだす。"マジック・リアリズム"なんてレッテルがあるが、むしろ「奇想」というほうがしっくりくる。完全に正常に、誰も思いつかないような異常を描く、奇妙な想像力を持っている。 瞠目したのが、「遊園地」を書いたホセ・エミリオ・パチェーコの奇想力。読むという行為で脳裏に形作られる世界が一巡したら、その世界に閉じ込められている自分に気づかされる。「読む」ことは、物語世界を取り込むことなのに、取り込まれてしまう。見ている自分が見られてましたという、人を喰ったというよりもわたしがい尽くされるよう。 さらに、奇想

    完璧な短篇、完璧な短篇を書くための十戒「美しい水死人」
  • この「ゆん」大好き! 「佐藤くんと田中さん」

    目ェキラッキラさせながら断言、この「ゆん」はエエで。 語れるほど読んでるワケではないが、「LOVELESS」のようなベトつき感や「妖精事件」みたいな絶望がない。サラっとヒヤっと非日常へ(でも萌えはあるよ、燃えじゃないよ!)。ぞっこん「ゆん」な嫁さん曰く、「ゆんらしからぬ、でもゆんなラブコメ」禅問答かよ… 「転校生の佐藤くんが吸血鬼だと見破った田中さん」というプロットから膨らむお話が好きだ(予想調和な展開で)。怜悧なインテリ吸血君と、猪突猛進不思議ちゃんのお馬鹿な掛け合いが好きだ(シリアスとギャグの落差で)。メガネ+スレンダー(小柄)+秀才と一部女子の秘孔を直撃する佐藤くんの激しい独白が好きだ(東京大学物語マイルドみたいで)。「吸血鬼は手が冷たい」ことを確かめるためいきなり腕をからめて手をぎゅっと握る(反則!)田中さんが好きだ。「アンタの全てを知りたい」と普通ならゼッタイ顔真っ赤にしてもいえ

    この「ゆん」大好き! 「佐藤くんと田中さん」
  • なぜ糞システムができあがるか

    納期が、予算が、バグフィックスが、性能、デザイン、インタフェース、使い勝手、保守が、可用性が、移行にマイグレーション、稼働率が、糞だ。そもそも要求を満たしとらんまともに動かない糞システムが、なぜ莫大な銭金かけてできあがってしまうのは、なぜか? アナリスト、コンサルPM、SE、プログラマ、テスタ、ヘルプデスク、メンテ、ユーザー、そして経営者と、それぞれの立場から言いたいことは山ほどある。それぞれの立場から「これぞ真の原因!」と叫びたいのも分かる。経営者を除き、全てのキャリアをやってきたから。だから、自信をもって断言する。糞システムができあがる、最も根っこの原因はこれだ。 一つ前の仕事をしている それぞれの立場で「やるべきこと」は分かっている。だからこそ、そのインプットが体を成していないことが明白なのだ。仕方がないので、自分で「インプット」相当を作るハメになる。 例えばプログラマ、プログラミ

    なぜ糞システムができあがるか
  • 横田創「埋葬」はスゴ本

    事実へのかかわり方で世界がズレる、これは初感覚ナリ。 読んでるうち、世界がでんぐり返る瞬間は体感したことがある。だが、これはその先がある。でんぐり返った所が真空となり、そこが物語を吸い込み始めてしまうので、穴をふさぐために自分が(読み手が)解釈を紡ぎなおさなければならない―――こんな感覚は、初めてだ。 若い女と乳幼児の遺体が発見された。犯人の少年に死刑判決が下されるが、夫が手記を発表する。「はわたしを誘ってくれた。一緒に死のうとわたしを誘ってくれた。なのにわたしはと一緒に死ぬことができなかった。と娘を埋める前に夜が明けてしまった」―――手記の大半は、と娘を「埋葬」する夫の告白なのだが、進むにつれ胸騒ぎがとまらなくなる。 なぜなら、おかしいのだ。冒頭で示される記事と、あきらかに辻褄があわないのだ。「信頼できない語り手」の手法は小説作法でおなじみだが、夫は嘘は語っていない。妄念と真実の

    横田創「埋葬」はスゴ本
  • ラテンアメリカ十大小説

    垂涎の狩場ガイド、繰るたびに嬉しい悲鳴。 特別意識してなかったにもかかわらず、「これは」というのが結果的にラテンアメリカ圏だったことは、よくある。幻想譚や劇薬小説が「ど真ん中」で、めくるたびハートをワシ掴みされる。自他彼我の垣根をとっぱらう、のめりこむ読書、いや毒書を強制されるのがいいんだ。 そしてこれは、ありそでなかったラテンアメリカ文学のガイドブック。ブラジルを除いたラテンアメリカスペイン語圏を中心に、10人の作家の10作品を選び取る。いくつか読んでいるので目星がつく、どれも珠玉級。 ホルヘ・ルイス・ボルヘス『エル・アレフ』―――記憶の人、書物の人 アレホ・カルペンティエル『失われた足跡』―――魔術的な時間 ミゲル・アンヘル・アストゥリアス『大統領閣下』―――インディオの神話と独裁者 フリオ・コルタサル『石蹴り』―――夢と無意識 ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』―――物語

    ラテンアメリカ十大小説
  • 劇薬小説「夜のみだらな鳥」

    愛する人をモノにする、究極の方法。 それは、愛するものの手を、足を、潰して使えなくさせる。口も利けなくして、耳も目もふさいで使い物にならなくする。そうすれば、あなた無しではいられない身体になる。べることや、身の回りの世話は、あなたに頼りっきりになる。何もできない芋虫のような存在は、誰も見向きもしなくなるから、完全に独占できる―――「魔法少女マギカ☆まどか」で囁かれた誘いだ。 悪魔のようなセリフだが理(ことわり)はある。乱歩「芋虫」の奇怪な夫婦関係は、視力も含めた肉体を完全支配する欲望で読み解ける。まぐわいの極みからきた衝動的な行為かもしれないが、彼女がしでかしたことは、「夫という生きている肉を手に入れる」ことそのもの。早見純の劇薬漫画「ラブレターフロム彼方」では、ただ一つの穴を除き、誘拐した少女の穴という穴を縫合する。光や音を奪って、ただ一つの穴で外界(すなわち俺様)を味わえというのだ。

    劇薬小説「夜のみだらな鳥」
  • 一筆書の人生「わたしは英国王に給仕した」

    給仕見習いから百万長者に出世した波瀾の人生を、いっきに語りおろす。 各章の冒頭は、「これからする話を聞いてほしいんだ」から始まり、エピソードてんこ盛りでオチ・サゲ・目玉を詰め込んでいる。解説のいう「ビアホールの詩学」はぴったりやね。居酒屋で知り合ったオッサンが、半分自慢、半分法螺の過去話を開陳する。語りの上手さ、映画的展開、ちょっとの(かなりの?)エロスと、狂気と、死。居酒屋小説なるものがあるならば、まさに書が適当だ。ナチス占領下のチェコの狂気が、狂気に見えないのは、語り手の吹き加減が上手いから? 想像の視覚を刺激するようなうつくしいシーンが、ふんだんにある。「裸にした女性を寝かせ、その肢体を花で飾る」とか、「若い娘のおしりをひろげて、子供のようにはしゃぐ老人」なんて、読んでるこっちがまざりたくなる。女というものはどこもかしこも愛らしい・美しいものだが、作者は(主人公は)特にお尻が気にな

    一筆書の人生「わたしは英国王に給仕した」
  • 「デザインの骨格」はスゴ本

    ブログを「」にすると、たいてい魅力を失う。 フロー的なコンテンツをムリヤリ紙化した呪いかね、と独り合点している。コンテンツが質量をもたないから、流し読みのように受けるわたしの態度のせいかもしれぬ。言葉にはチカラがあるのに、情報だけ吸われてすべってゆく感覚。しかし、嬉しい例外を見つけた。「デザインの骨格」だ。 これはブログ「デザインの骨格」をまとめたもの。単なるブログではなく、それぞれのサブテーマに沿って記事が取捨選択され、著者がどのようにアイデアの枝を伸ばしていったか「見える」ようになっている。これは編者のチカラだろう。さらにそれぞれの章立てを支える言葉のチカラが輝いて惹きつける。たとえばこうだ。 4脚のニワトリ 雨はなぜ痛くないのか 車を自分で運転しなければならなかった時代 Suicaの読み取り角度はこうして決まった 感覚を射抜くことばを見つけよ 働かないロボットたち 「おやっ」「

    「デザインの骨格」はスゴ本
  • 現実をスウィングしろ「宇宙飛行士 オモン・ラー」

    これは傑作。現実からすべり落ちる感覚を満喫する。 ベースは30年前の冷戦時代。米ソの月探索競争を背景に、宇宙飛行士を目指す若者・オモンが語り部だ。現体制を守るため理念や思想が自己目的のお化けとなるトコなんて、いかにもソヴィエトらしくて笑える。だが、ステレオタイプな「ソヴィエト」に心許してると、裏をかかれる。現実から感覚がズれてしまう。 この感じは、「止まったエスカレーター」だ。ふつうエスカレーターは「流れて」おり、わたしはタイミングよく「乗っかる」ことで運ばれてゆく。ところが、点検か停電で止まった状態のエスカレーターで上ろうとすると、体と感覚のバランスが取れなくなる瞬間がある。目に入るのは「エスカレーター」なので、体を自然に「流れ」に合わせようとしてフラッとなるのだ。 同様に、「戯画化されたソヴィエト」や、「一人称のお約束」に沿って乗っていこうとすると、オヤッ、フラッとなる。わたしが「現実

    現実をスウィングしろ「宇宙飛行士 オモン・ラー」
  • 「奇想の美術館」はスゴ本

    博覧狂気マングェルの絵の読み方。 完全にタブラ・ラサの状態で芸術に触れることは、不可能だ。プラトンによれば、あらゆる知識は記憶にすぎないし、ソロモンにいわせると、新しく見えるものは、すべて忘れられたものでしかない。わたしがある形状や色彩を知覚する際、それらは既に知覚済みの領域に反応しているにすぎない。 われらがマングェル、当然そんなことは百も承知。第一に、「描かれたもの」、自分が目にした図像、イメージから記憶を呼び覚まそうとする。たいていは幼い頃の思い出だったり、ハマった小説にまつわる風景だったりする(マングェルは<たぶん>世界一の読書家だ……生きてる人の中で)。 だから読者は、マングェルの記憶から堀りだされる数多の小説・論文・エッセイに面らうかもしれない。絵の話が文学になり歴史に転がってゆくから。描かれたオブジェクトの一つ一つが何を象徴しているかを汲み取るためには、美術史と図像学の知識

    「奇想の美術館」はスゴ本