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ブックマーク / concorde.air-nifty.com (38)

  • 「読まれる」ためのエントリを「作る」ということ - CONCORDE

    だいたいが「書く」というのはアウトプットなんだし、「べる」という比喩は違うよなぁ、と思って。 ブログを書く事はメシをうようなものである | goryugo, addicted to Evernote を読んで考えたことなど。 たまにブログ書かないくらい平気だけど、ずっと書かないと体の調子が悪くなる位言えたらカコイイ! これが「書く」でなくて「読む」ならおもいっきりあてはまる(笑)。 それこそ事を摂るように、ほとんど生活の必須事項になったインプットとして。 逆にアウトプット=ブログを書くことを事に例えるなら「作る」ということになるわけですが、 日常の、身内もしくは自分のための事と同じ(ようなもの)かと言うと、そうじゃないように思うのです。 公開しているのだから。 読まれること前提で、そして、あわよくば反応も期待しているのだから。 「他人様にお見せする」程度のもの。 かといってお代を

    「読まれる」ためのエントリを「作る」ということ - CONCORDE
  • Facebook(を推すひとたち)に思うこと - CONCORDE

    Facebookイイネ!と宣伝してるひとたちが巡回範囲で目につきましたもので、つい。 ※現状、(実名制ということもあって)『グローバルな(そしてビジネス風味の)人脈作りSNS』として機能しているのがFacebook国際的大躍進の理由、と理解していますが、こちらの前提のほうでよろしかったでしょうか(ファミコン敬語) ※ほとんどはツイートしたことの再掲にございます しかし、よくもまぁ、ブログ等で公言するなんてやり方で無邪気に推せるもんですね。公言したら(しても)「自分と同じ志(意識レベル)のひと」しか釣れないと思ってるんだとしたら、どんだけお花畑なんですかと。 『日のネットマジョリティに見つかったらマジメな使い方はオシマイ』ということを、いまの(デマ流布と大喜利の巣窟と化した)Twitterの"惨状"から何も学ばなかったんだとしたら、愚かにも程があるんと違いますか? つまり、大っぴらにマジョ

    Facebook(を推すひとたち)に思うこと - CONCORDE
  • フリーソフトに社会的責任がナンセンスなら、無料サービスにも社会的責任はあり得ないですよね。 - CONCORDE

    ──追記── 引き続き次稿において、わたしがメインに問いかけたいことをすこし詳しく書きましたので、そちらも参考にしていただければと思います。 『わたしは』「フリーソフトに社会的責任ありやなしや?」ということをメインに問いたいのではない旨、ご理解いただきたく思います。 「フリーソフトに社会的責任を求めるなどナンセンスだ」という声が大きいみたいなので確認しますよ! フリーのTwitterクライアント(作者)に無茶振りをしたひとがいたらしいのが発端の議論: 代表して『Togetter - まとめ「夜フクロウの件に関するさまざまな反応」』を参考リンクにあげておきますが…… ……個人的には、有料か無料か、意図したか否かに関わらず、結果として社会に影響を与え(てしまっ)たら責任も発生しちゃうんじゃないかなぁ?、という気もいたしますが、 繰り返しますが「フリーソフトに社会的責任を求めるなどナンセンスだ」

    フリーソフトに社会的責任がナンセンスなら、無料サービスにも社会的責任はあり得ないですよね。 - CONCORDE
    hejihogu
    hejihogu 2010/05/17
  • 少なくともブログやTwitterにおいては「コミュニケーションが第一義」であってほしい、かな。: CONCORDE

    むしろ「コミュニケーションができる」という以上の実利を求めるな、とあれほど…… ウェブがコミュニケーションツールであるとの誤解がtwitterによって加速する - novtan別館: ウェブにおけるコミュニケーションツールの側面と言うのは言ってみれば副作用みたいなもので、Publicなスペースに対して容易にPublishできるということ利用方法の一種に過ぎませんね。 そうですか? 組織や、個人でも業務としてのPublishであるならそうかもしれませんけど、 わたし(たち)のように「個人が個人の立場で」発信するというときには、ウェブ利用以前──パソ通の昔──からコミュニケーションが前提であったはずなので、"副作用"という表現はちょっと、ね。 つながり感がそれなりに強調されているけどそれは、有名人と直接やり取りできる、みたいなメリットばかり。 そうなんですか?……まぁ、こうやって「しらないだれ

    少なくともブログやTwitterにおいては「コミュニケーションが第一義」であってほしい、かな。: CONCORDE
  • Twitterを解説するのに「ゆるい」という冠をつけてはマズいのではないかと思った件。 - CONCORDE

    みなさん、よくそうおっしゃいますけれど……というか、わたしも前稿でおもいっきり強調表示までしておいてアレなんですけれども。 イヤならリムーブすればいいぢゃないなう - カナかな団首領の自転車置き場: スイーツ的には、Twitter という居酒屋で、(中略)一人でべらべら喋り続けて、他の友達の話が聞こえなくなっちゃった、(中略)「ちょっと、少しは静かにしててよ。皆、しらけちゃうじゃない」という忠告を、思い切ってリプライするわけ。 そしたら、「イヤならリムーブすればいいぢゃないなう」とか言われるわけ。 挙げ句の果てには、RT されて、はてブされて、言われ放題。 いえいえ、リムーブするなんて出来ません。だって、リムーブされたらイヤだから。自分がされてイヤなことを、他人にしてはイケナイんですよ、がスイーツの鉄則。無断リンク禁止と同じなのね。 うん、分からなくはない。 ということで思ったこと。 Tw

    Twitterを解説するのに「ゆるい」という冠をつけてはマズいのではないかと思った件。 - CONCORDE
    hejihogu
    hejihogu 2010/01/09
    確かにtwitterの説明の時に「ゆるい」って表現が一人歩きしてるなって感はありますね。きちんとした説明を見ずに「ゆるい」って言葉だけで始めると違和感がある人も多いかも。
  • 「君も素麺 我も素麺」? - CONCORDE

    そういえば神姫バスにナントカ──いま調べたら「宮中そうめん流し」という名のバス停がありましてですね、通りかかったのが真冬だったので苦笑したことを思い出しました。 さて。 前稿にトラックバック頂きました件。 2009-04-23 - 明日は明日の風が吹く: 見もしないのにフォローするのは、たまたま見た時、その画面に面白い事が書かれていたら良いなという、宝くじ的な期待から(笑) twitterにおけるフォローは、相手のつぶやきを自分の観測レーダーに捉えたくらいの感覚 - 北の大地から送る物欲日記: フォローしている人々に対して、どこかで互いの興味が一致して会話を楽しめたらな、くらいの緩い感情しか抱いていません。(中略)緩い感情しか抱いていないので、それぞれを個別に認識できるほどマメにタイムラインをしっかり読もうとは思いません。 うーん、どなたの作った言葉だか存じませんが、『情報の流しそうめん』

    「君も素麺 我も素麺」? - CONCORDE
    hejihogu
    hejihogu 2009/04/24
    知人とか深く興味が沸いた人は、結構タイムライン見たりしますけどね。全員に同じ時間的コストをかけるだけの興味を抱いていないので、後は流し素麺風に。メンバーグルーピングできるクライアントなら両方対応可能。
  • フォローしたのは、他でもない「自分」でしょ?(Twitterで過ごした1年) - CONCORDE

    丸々他サービスの話は自分に課したポリシー違反なれど、文章となるとやはりここで、ということになるわけで…… Twitter語版スタート1周年とのことで、わたしも参加させてもらってちょうど1年が過ぎまして。 ええ、あまり自覚できるほどの変化はございません。 結局はブログと同じようなもので、「タイムラインを眺めて楽しむ」ことと「自分も参加する」ことに、悲しいかな(楽しみという点で)さほど大きな差が生じない現状にございます。 まぁ、群衆の中の孤独と申しますか……「場」がなんであれ、それが自分の、そして元気に目立つあのひとの個性の実力なんだ、ということを再確認した次第ではあります。 ……と自分のことはともかく、"暗黙の了解"である(と思われる)これには物申したくなるわけでしてですね、... シロクマ日報 > 「ふらりと立ち寄れる」感が Twitter の魅力 : ITmedia オルタナティブ・

    フォローしたのは、他でもない「自分」でしょ?(Twitterで過ごした1年) - CONCORDE
    hejihogu
    hejihogu 2009/04/23
    twitterでフォローした人はどこかで何かが交わるかもしれない可能性を得た、くらいの小さな関わりだと思ってる。
  • 「闇の中の光」ってことは、基本は「闇」なんだから。 - CONCORDE

    「明るい(ポジティブな)ことだけで構成されたブログ論」を読むたんびにイラッとする。 そんなことが起こる可能性を頭から否定するわけじゃない。 いくつかは実体験にもとづくものだろうし。 だけどね。 それは「日常」ではないでしょ、と。 日常、すなわち、 ((読まれたくて)ブログする) ほとんどの人にとって、そして、ほとんどのエントリというのは、 玉石の石として淘汰されて、 読まれも(どころか見られさえ!)しないまま流されてゆくものでしょう? その「真っ暗闇」こそが日常の風景じゃないですか。 たぶんブログを続けていけるかどうかのカギになるのは、その『闇の日常』を受け容れることと、いかにその日常を耐え忍んでゆくか、ということだと思うのですが。 ……といって確たる「耐え方」があるでもなく、内心フラストレーション貯めつつ表向き淡々と更新してゆくしかないかもしれませんが…… ともあれ、期待のしすぎは身体に

    「闇の中の光」ってことは、基本は「闇」なんだから。 - CONCORDE
    hejihogu
    hejihogu 2009/02/09
    「闇の中の光」を語るとき、闇に主眼を置くか、光に主眼を置くか。どっちかだけじゃないんだから、語りたい方を語ればいいと思うんだけどね。闇ありきなんだと語りたい人もいれば光を語らずにはいられない人もいる。
  • なんでソーシャルブックマークの『コメント』ばかりいつも主議題になるんでしょうね? - CONCORDE

    (語圏)において。 ソーシャルブックマーク(以下SBM)に関する議論(というかもめごと)は、いつもいつもそのブックマークに付随している「コメント」に関する議論(というかもめごと)であるような気がするのですが。 なんで? 原初の意図からすれば、おかしいとは思わないのでしょうか? SBMというのはタグ付けによるフォークソノミー──分別ある分別──の一形態という出自をもつのではなかったのでしょうか? そうであるならば、なぜ(タグ付けではなく)ブックマークコメントばかりが議論のメインになっているのでしょう? 出自からいえばあくまでタグが「主」であり、コメントは(あってもなくてもいい)「従」の存在であるはずでは? なぜ寄ってたかってSBMのコメントを「主」と扱ってその内容やあり方ばかりを議論していますか、いわんやコメントによってコミュニケーションするなど。 客観的に見ていると不思議でしょうがない

    なんでソーシャルブックマークの『コメント』ばかりいつも主議題になるんでしょうね? - CONCORDE
    hejihogu
    hejihogu 2009/01/30
    主であるはずのタグよりもコメントの方に食いついてる人がそれだけ多いってことなんでしょうね。良くも悪くも。
  • わたしは「読む落語」のようなものをネットに求めているのかもしれない。 - CONCORDE

    釈明の釈明というわけではないのですが。 ほんとは前々稿からこの流れにつなげたかった意識もあったので。 いきなり長い引用をしますが: なぜ、落語はおもしろいのか。繰り返し繰り返し稽古して、繰り返し繰り返し演じられるネタが、どうしてすりきれてしまうことなく、人の心を魅了し続けるのか。 (中略) 古典落語の世界となっているのは、いわゆる「古き良き」時代の大阪である。海も空気も汚染されておらず、地球上のどこにも核兵器や化学兵器などひとつとして存在していなかった頃の話である。出てくる人物は、(中略)根っからの悪人はひとりもいない。アホでのんきなやつらが、アホでのんきなことを今日も今日とてしでかすのだ。 落語は、笑うために聴くのではない。一度目は笑えたくすぐりも、繰り返し聴くと飽きてしまう。それなのに、同じ落語を何度聴いてもおもしろいのはなぜだろう。それは、落語の世界では、時間がとまっているからだ。殺

    わたしは「読む落語」のようなものをネットに求めているのかもしれない。 - CONCORDE
  • 場が違っても、「人」なんですよ? - CONCORDE

    コミュニケーションする相手を加える/除くにあたっての"重さ"のこと。 開始当初からヘビーに使ってきた先駆者が異口同音に書くわけですよ、「Twitterではfollowもremoveも気軽にしていい(というか、気にしちゃいけないお約束)」と。 なんでなんで? たとえばSNSでのともだち関係(mixiでいうところのマイミク)の加除とTwitterでの加除に"重さ"の違いがあっていいという(むしろ積極的に軽重差を作っているように感じますが)のはなぜ? 自分にだってそういう(気楽に加除する)"空気"をTwitterに感じないわけではないですよ(但しそれは(日の)"アーリーアダプター"が自分たちで作り上げた"暗黙の了解"を繰り返し書かれたから自分もそう思ってしまっているだけのことかもしれないけど)、しかし。 「画面の向こうには人がいる」というのは、あなたがただってよくお書きになるフレーズですよね?

    場が違っても、「人」なんですよ? - CONCORDE
    hejihogu
    hejihogu 2008/11/17
    気軽にFollowRemoveってのと、人を軽く扱うってのは=ではないと思う/サービスの向こう側にいるのは人だけど、サービス(場)によってコミュニケーションの距離や種類が違うから重さの感覚も異なるんじゃないかと。
  • 「悪いぶつかり方」をしてしまいました。 - CONCORDE

    ネットを利用する目的は人それぞれだが、それでも我々は共存している - 北の大地から送る物欲日記のトラックバックを受領しました。 前稿を書き、ましてやトラックバックを撃ち込んだことで不愉快に思われたのであれば、そのことをまず率直にお詫びします。 「悪いぶつかり方」をしてしまいました。 不愉快の上塗りになってしまわないことを願いつつ、いくつか釈明させてください。 ネットを利用する目的は人それぞれだが、それでも我々は共存している - 北の大地から送る物欲日記: ネットをストレス発散の憂さ晴らしの場として捉えている人はネットで成長しようなんて望んでいませんよね? 主従を逆転させて読んでしまったといいますか、「成長しようなんて望んでないひと」イコール「ストレス発散の憂さ晴らしをするひと」として反応してしまったのが誤りだったかもしれません。 それはさすがにあんまりですよ、と感じてしまったのが発端です。

    「悪いぶつかり方」をしてしまいました。 - CONCORDE
  • 拒絶はしないにしても、成長や生産的であることを「ネットする」目的にはしないかな。 - CONCORDE

    そやかてうちら、浮世(=憂き世)から離れるために来てんやんか、こっちの世界までそんな概念で覆うの堪忍してほしいわ、というのが音。 ネット上は二極化しがちだけど、あなたはどちらに向かいたい? - 北の大地から送る物欲日記: そもそも人が成長したがってるかどうか?という根的なところもあり、ネットをストレス発散の憂さ晴らしの場として捉えている人はそもそも成長は望むべくも無い。 えらい言われようですが(苦笑)。 リテラシーを身につけて"自分を磨く"、自己啓発だとか切磋琢磨だとか。 そこから発展して生業を得るだとか。 そういう目的のひとが少なくはないという存在自体は理解しているし拒絶するわけじゃない。 関連→質問 : ブログを読み書きするのって、 : アバウトミー : @nifty また、そういったひとたちにとってのほほんと過ごしているわたしたちがノイズになってしまっているであろうこともまた理

    拒絶はしないにしても、成長や生産的であることを「ネットする」目的にはしないかな。 - CONCORDE
    hejihogu
    hejihogu 2008/11/09
    趣味娯楽的に浮き世から離れるためにネットを使う人が多いのは十分実感していますよ?/すでに多数派が圧倒的なのだからネットは多数派の主張しかあり得ないってのは無いなあ/棲み分けは理想だけど難しいと思う
  • だいじに聴こうよ、やっと手に入れたその曲を。 - CONCORDE

    hejihogu
    hejihogu 2008/10/25
    音楽の入手手段の容易さと大事に聴くか?ってのは別問題。入手が容易になれば聴き捨てな人も出るかもしれないけど、本当に聴きたい人にも届く/大事に聴かれたいから入手しづらくするぜ!ってのには同意できないなあ
  • 「遠くよりお慕い申し上げております」 - CONCORDE

    そんな感情なのでしょうか? ずっと自分にとって憧れの存在にしておきたい、ような。 ネットの人と会うことについて - おれはおまえのパパじゃない: 自分の好みの文章を書いてたり、度を超して面白いことを書き続けてたりする人だと、だんだん「いったいこの人はどんな人なのだろう」と思い始める。そしてそれが高じて、「なんかちょっと、一回会ってみたい。飲んでみたい」みたいなね。 ないんです。ない。基的に会いたいとかビタイチ思ったことない。ずーっと書き続けてほしい、ずーっと面白いものを読ませてほしい、とは思うけど、会いたいと思わない。 「ネットとリアルの峻厳たる区別」という意味では共感するところ大。 →関連: ただ、画面に映る文字のみで。(2004.04) 画面の枠の中にとどまることを、私は「純粋」と呼びたい。(2008.03) ……だけど、なんとなくニュアンスが違う気がするので。 「会ってみる」と「友

    「遠くよりお慕い申し上げております」 - CONCORDE
  • ホントに押したことないんです……そんなに珍しいですか? - CONCORDE

  • Wikipediaサーフィンがとまらない(あと、情報と、感情と。) - CONCORDE

    前世紀、はじめて「インターネット」した時の。 家電量販店の体験コーナーで張り付いてた時のように。 「自分のマシン」を手に入れて、電話代気にしながらクリックしてた頃のように。 ちょっとした調べ物のつもりで開いたWikipedia。 文中の/関連の語句を次々開く、Wikipediaサーフィンがとまらない。 元の(調べようとした)対象以外は読んだことを覚えもしないけど。 その場で「ふ-ん」「へぇー」とつぶやくだけのトリビアでしかないけれど。 いつからかブログのトラックバックをたどっていくような読み続けかたをしなくなり。 ニュースサイトなんかをベースにした1クリックの往復で済ませるようになっていたのに。 違いを考えていた。 (知識としての)(辞書的な)「情報」なら時間を忘れて次々読めるけれども。 (個人個人の想いが詰まった)「コラム」はそうは連続して読めない、のかもしれない。 想いが重すぎて。 も

    Wikipediaサーフィンがとまらない(あと、情報と、感情と。) - CONCORDE
  • 「来て」ほしい?「読みに来て」ほしい? - CONCORDE

  • 本当によかったのかな - CONCORDE

    前回今回と題名に悩んだ…… ネットという場の特性をもっと分かってもらう必要性 - 北の大地から送る物欲日記: 「事故防止のための何か」ってのは、現状ではシステム的な何かってよりかは、ネット上で何かを書く人の心構えや正しい知識なんだと思います。もしくはそれを啓蒙していく活動とか。 私もそう思いますしかつて何度か書いたこともあるし(一例→楽しもうと思うなら、覚悟が必要。(2005.08))他のどなたかも書かれていたような記憶があるのですが、やはり"増やしてナンボ"のサービス事業者には期待薄だろうな、というのもあるんですよね…… じつは前稿で一度書いて消したのですが、 これほどまでブログが広まったのは当によいことだったといえるのでしょうか?という問いに帰結してしまうんですよ、私の場合。 およそ相容れることのなさそうな様々な向き合い方が見た目フラットに<ブログという仕組み>の中に混在していますか

    本当によかったのかな - CONCORDE
  • 顕在した危険、潜在したままの可能性。 - CONCORDE

    どうしようもないこと、という結論が先にあってのつぶやきなのですが。 どこでも発言できる可能性を得た代償 - 北の大地から送る物欲日記: 自分の知らない場所で自分の発言に対する反応を書かないで欲しいって人は、誰でも見られる場所に書いていることが間違い。たとえ、一日に10アクセスしかないブログであったとしても、それがネット上で公開されている限り、ある日突然大量の人に見られる可能性があることを忘れてはいけない。 それは正論なんですよ、間違いではないのですけどね…… たぶん実際には、 最初から最後までそういう"ミウチ"の10かそこらのアクセスで平和裏に寿命を全うするブログが圧倒的に多いのだろうと思うし、 逆に"読まれてナンボ"と思って書いているところにはアクセスがなかったりもするわけで、 さらには[炎上上等:かかってこいやー!]と世間を挑発したつもりがヒトケタのアクセスで終わってたりすることも珍し

    顕在した危険、潜在したままの可能性。 - CONCORDE