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2016年11月5日のブックマーク (4件)

  • 考えないで感じるとして、その「感じる」ってどういうことなのかって話。『触れることの科学: なぜ感じるのか どう感じるのか』(デイヴィッド・J. リンデン著) : Book News|ブックニュース

    2016年11月05日12:30 カテゴリ 考えないで感じるとして、その「感じる」ってどういうことなのかって話。『触れることの科学: なぜ感じるのか どう感じるのか』(デイヴィッド・J. リンデン著) 考えるな、感じろ。有名なセリフですし、会社の新人研修でも目にしたり耳にしたり、あるいは自分で口にしたりすることのある表現だと思います。 英語で言えば「Don't think, feel」。ここでいう「感じる feel」という言葉はしかし、科学的にはどのようなものなのでしょうか。 今回とりあげる『触れることの科学』は、既刊の『快感回路』で依存症と脳の関係を読みやすく紹介した著者が書いた、「感触」論。 五感でいえば「触感」。 書の原題である「touch」は触るということですが、冒頭で挙げた「feel」の名詞形「feeling」は感情という言葉として使われています。書ではなぜ「視覚」ではなく「

    考えないで感じるとして、その「感じる」ってどういうことなのかって話。『触れることの科学: なぜ感じるのか どう感じるのか』(デイヴィッド・J. リンデン著) : Book News|ブックニュース
    hharunaga
    hharunaga 2016/11/05
    「脳を理解するためにはセンサーの仕組みを知る必要がある」
  • ロックと悪魔 第一回

    ヘヴィメタルというロック音楽とキリスト教思想、特にプロテスタントとの関係を考えるのがこの論考の目的である。さらに、それを通して同じキリスト教とはいえ、カトリックとプロテスタントでは悪魔に対する考え方に違いがあることを説明する。 中学の頃、ヘヴィメタルの洗礼を受けた。その悪魔の表現に惹かれたのだ。その頃は単に悪魔のおどろおどろしい姿がかっこよく見えただけで、小学生の時に水木しげる氏の描く妖怪の世界に惹かれたのと基的には同じであったと思う。悪魔がどういった存在だとか、神とどういう関係を持っているとか、キリスト教文化の中で悪魔を描くことが社会的にどういう意味を持っているかなど、こういった問題に関してはまったくと言って良いほど知らなかった。悪魔を描くこと、キリスト教の教えの面から言っても、歴史的に言っても、そこには重要な意味がある。たとえそれがロックという「低俗」な音楽だから大した問題にはならな

    ロックと悪魔 第一回
    hharunaga
    hharunaga 2016/11/05
    「ヘヴィメタルが盛んな土地と言えば…そのほとんどすべてがプロテスタント地域であることに気づかされる。対して、カトリック圏…にはハードロックはあれど、ヘヴィメタルのバンドと言ってもなかなか思いつかない」
  • 鷲田清一さんの「ひとはなぜ服を着るのか」に出てくる45ページの文章で意味のわからない部分が多々あり、別の文章に関しても質問させてもら... - Yahoo!知恵袋

    鷲田清一さんの「ひとはなぜ服を着るのか」に出てくる45ページの文章で意味のわからない部分が多々あり、別の文章に関しても質問させてもらってます。今回はこちらの文章の意味を 教えていただ 鷲田清一さんの「ひとはなぜ服を着るのか」に出てくる45ページの文章で意味のわからない部分が多々あり、別の文章に関しても質問させてもらってます。今回はこちらの文章の意味を 教えていただ けないでしょうか。 制服は、規律や秩序に対する人間の従順さをイメージとして表出している。ということは、規律への従順さを表す制服が、まさにその従順さを凌辱するようなまなざしを呼び寄せるという逆の面を、いやでも持たずにはいられないということでもある。それは、制服へのいわば裏返されたまなざしであって、制服でも特に規律性の高いものが、まなざす者の欲望の震えとでも言うべきものを誘い出すようだ。アニメのヒロインになりきるようなコスプレや異性

    鷲田清一さんの「ひとはなぜ服を着るのか」に出てくる45ページの文章で意味のわからない部分が多々あり、別の文章に関しても質問させてもら... - Yahoo!知恵袋
    hharunaga
    hharunaga 2016/11/05
    「規律への従順さを表す制服が、まさにその従順さを凌辱するようなまなざしを呼び寄せる…。軍服願望やセーラー服願望など(フェティシズム)…制服にはこうした欲望を誘発するところがある」
  • 最終回 資本主義の思弁的同一性 part4|資本主義の〈その先〉に|大澤 真幸|webちくま(1/5)

    ※推奨ブラウザ:Google Chrome / Firefox 「可能性」観念の極端な両義性 ジョン・ロックは、こう言っている。「始めは、世界全体がアメリカであった」と(1)。ロックのこの言葉に示されるように、ヨーロッパから北米に渡った者にとって、「アメリカ」という土地は、世界と人間の始源状態と感じられた。実際には、アメリカにも先住民がいたのだから、つまりそこにはすでに世界も社会もあったのだから、これは、とんでもない認識だが、今はこの点は脇においておく。いずれにせよ、北米に入植した者たちは、ヨーロッパの伝統の束縛から自由に、原点から始めようとした――始めることができるとの強い実感をもっていた。この場合、ヨーロッパの伝統とは何か。端的に言えば、それは、カトリックのことである。言い換えれば、北米では、プロテスタントの論理が、カトリック的な残滓から完全に解放されて、純粋に作用した。 われわれは、

    最終回 資本主義の思弁的同一性 part4|資本主義の〈その先〉に|大澤 真幸|webちくま(1/5)
    hharunaga
    hharunaga 2016/11/05
    「アメリカは荒野でありかつ楽園である。…両極端の敵対的な二つの意味。これが資本主義を特徴づける内的な敵対性の原型になっている」(大澤真幸)