先日退陣を表明した菅政権だが、発足後間もない時期に日本学術会議会員候補の任命拒否という出来事があった。これは、菅政権の固有性にとどまらない、日本の大学や学問の、国家・社会に対する位置を象徴的にあらわしている。 中世の12世紀末にヨーロッパで生まれた大学の制度が日本に移入されたのは明治初期のことである。1877(明治10)年に、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の流れをくむ東京開成学校、西洋医学所の流れをくむ東京医学校をあわせて東京大学が設立されるが、この段階では学位を出す機関として司法省法学校、工部省工部大学校といった、各官庁がそれぞれの職務に必要な人材を養成する学校を設けており、有力な複数の進学コースが並立していた。 その後、明治政府の機構の再編過程で、すべての教育は体系的に文部省の手に握られることとなり、司法省法学校や工部大学校を統合し、86年に、法・医・工・文・理の5分科大学からなる「帝