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パレスチナに関するhiroetteのブックマーク (5)

  • ドイツ現代史研究の取り返しのつかない過ち――パレスチナ問題軽視の背景 京都大学人文科学研究所准教授・藤原辰史 | 長周新聞

    京都大学で13日におこなわれた公開セミナー「人文学の死――ガザのジェノサイドと近代500年のヨーロッパの植民地主義」【既報】より、藤原辰史・京都大学人文科学研究所准教授の基調講演「ドイツ現代史研究の取り返しのつかない過ち――パレスチナ問題軽視の背景」の要旨を紹介する。 □      □ 今日の問題提起は、ドイツ現代史研究者の一員である自分にも矛先を向けたものでもある。 ドイツ現代史研究者は、パレスチナ難民やイスラエルの暴力をまったく無視しているかといえばそうではない。批判も多々してきているが、当事者意識が欠落している。たとえば、パレスチナ問題を「生成」した問題として扱い、きわめて「他人事」として起きている「かわいそうなこと」という倫理的問題として捉えがちである。その「上から目線」がパレスチナ問題を見る目を曇らせているように思う。 そして、パレスチナとともに中東欧や南欧へも関心が低すぎる。ド

    ドイツ現代史研究の取り返しのつかない過ち――パレスチナ問題軽視の背景 京都大学人文科学研究所准教授・藤原辰史 | 長周新聞
  • イスラエル地上侵攻の最重要ターゲットはこの男、手足と目と家族を奪われながらも「不死身」のハマス軍事司令官

    <イスラエル奇襲攻撃の首謀者といわれるハマスのデイフ司令官は何度も暗殺の試みを潜り抜け、今や生きても死んでも厄介な大物テロリストだ> <動画>車載カメラが捉えたハマスの大規模攻撃、処刑、略奪 イスラム武装組織ハマスによるイスラエルへの大規模攻撃の報復として、イスラエル国防軍(IDF)がパレスチナ自治区ガザへの攻撃を強化するなか、ハマスの軍事組織の中枢にいる謎に包まれた人物に注目が集まっている。彼は最後の抵抗の準備を始めているのかもしれない。. ハマスのアル・カッサム軍事旅団を率いるムハンマド・デイフ最高司令官は、意図的に身を隠しており、彼についての情報はほとんど知られていない。通称のデイフには「客人」という意味があるが、それは一か所にとどまらず、頻繁に居場所を変えるからだ。 そのおかげでデイフは、命をねらうイスラエルの襲撃から逃れてきた。長い間生き延びてきたデイフだが、イスラエル軍が大規模

    イスラエル地上侵攻の最重要ターゲットはこの男、手足と目と家族を奪われながらも「不死身」のハマス軍事司令官
  • 「どこも行く所がない」 イスラエル軍が激しい報復、恐怖に閉ざされたパレスチナ民間人

    パレスチナ自治区ガザ地区(CNN) パレスチナ自治区ガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスが7日午前、イスラエルを攻撃したことで、ガザ住民のパレスチナ人からは賞賛と不安の入り混じった声が上がっている。 ガザ住民は、ハマスの攻撃をイスラエルに対する勝利とみなして歓迎する一方で、激しい報復におびえる状況が続く。 イスラエルのロン・ダーマー戦略担当相は8日、イスラエル国内では600人以上が死亡し、死者の数はさらに増える見通しだとCNNに語った。 イスラエル国防軍の報道官は同日、イスラエル軍はガザ地区でハマスが使用した発射装置など800の目標を破壊したと述べた。 ガザのパレスチナ保健当局は、子ども78人を含むパレスチナ人少なくとも413人が死亡したと発表した。 これまでに何度もイスラエルとの衝突を経験しているガザ市民は、大多数が防空壕(ごう)も利用できず、自宅で身を潜めている。ガザは360平方キ

    「どこも行く所がない」 イスラエル軍が激しい報復、恐怖に閉ざされたパレスチナ民間人
  • イスラエルによって徹底封鎖されたガザ地区恐怖の15年

    イスラエル・ガザ国境での抗議活動で、有刺鉄線を外そうとするパレスチナ人の障害者男性(2018年10月19日撮影)。(ロイター) 15年前の今月に始まったイスラエルのガザ地区封鎖が今なお続いているばかりか一層厳しくなっているとは、誰が想像し得ただろうか?それこそが今や約230万人の人口を擁するこの小さな帯状の地域に起こっていることなのだ。 ガザ地区に住む約80万人のパレスチナの子どもたちは、封鎖のこと以外は何も知らない。彼らはこの人工的に作られた地獄の外に出たことがない。彼らは電車を見たことがない。飛行機はイスラエルの軍用機しか目にしたことがない。電気は限られている。水は動物にさえ適さない。彼らは生まれながらにして死刑囚のような扱いを受けている。 では、世界最大の野外刑務所と言われるガザ地区での生活は、この15年間でどう変わったのだろうか。規模は大きくなっていないが収容者数は増えている。実際

    イスラエルによって徹底封鎖されたガザ地区恐怖の15年
  • ジャーナリスト藤原亮司のブログ

    2002年のガザでは、もうひとりとても親しくなった人がいた。 泊まっていたアダムホテルのウェイター、アベッド・マンスールだ。 彼もサミールと同じように週に2日ぐらいしか働けないが、仕事に出てきた日には終わってからも私が取材から帰ってくるのを待っていてくれ、何かと話した。 彼はまだガザが封鎖されていなくて海外に出られたころ、ウクライナの医学校に留学した。医者になろうと思ったのだという。 しかし彼の実家は学費の援助を続けられず、2年ほどで彼の留学は打ち切られ、ガザの安ホテルでようやく見つけたのがウェイターの仕事だった。 私より3歳ほど年下の彼は、当時29歳。アラブ人にしては遅い結婚をしたばかりだった。 私がガザを出て帰ると言うと、「一度わたしのに会ってくれ」と、家に招かれた。 家を訪ねると、彼ら夫婦が使っている部屋に通された。ガザの人たちは土地がないため、一棟の家を上に建て増しして行って、兄

    hiroette
    hiroette 2009/02/25
    2009年1〜2月 ガザ取材のブログ by藤原亮司
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