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服飾史に関するhiroetteのブックマーク (3)

  • 女房装束

    「十二単」、正式には「五衣・唐衣・裳」と呼びます。 左の写真は、陽子の十二単の晴れ姿です。 古くは「女房装束」「女装束」「裳唐衣」などと呼ばれ「十二単」という言葉はありませんでした。平家物語で、壇ノ浦に身を投げる建礼門院平徳子の装いを「弥生の末(3月24日)のことなので藤がさねの十二単~」と記してあるのが最初だということです。 十二単の来の意味からいうと単(ひとえ)の上に褂(うちき)を十二枚はおってはじめて十二単なのですが、この語感が良かったのか以降、盛んに用いられるようになったということです。 十二単の構成は、まず足には「襪(しとうず)」を着けます。次に紅精好の「長袴(ながばかま)」、「単(ひとえ)」をつけて、その上に「衣(きぬ)」(袿ともいい、五領重ねてるようになってからは「五衣(いつつぎぬ)」と呼びます)「打衣(うちぎぬ)」「表着(うわぎ)」を着重ねて、「唐衣(からぎぬ)」を打ちか

    hiroette
    hiroette 2012/03/13
    十二単の説明が図入りでわかりやすく解説されています。
  • 宮廷装束  高田装束研究所 

    書籍情報 服装の歴史      中央公論新社 中公文庫    著者 高田倭男 高田装束研究所前所長 1995年に刊行されました「服装の歴史」の文庫版です。その後進んだ研究内容を付加え、再刊行されました。 平安時代後期公家装束(復元)の着装・解説・講演会 会 場 東京大学駒場 I キャンパスにて 講演者 高田装束研究所前所長 ・ 装束提供、着装 高田装束研究所 女房装束、夏の直衣姿 宮内庁御用達 宮中御装束調進 高 田 装 束 研 究 所 重厚な質の高い、来の装束を製作しております 服装に関する知識を学術的に御提供しております 服装史、染織史等について、さらに研究を進めております 令和度もなお、品格の高い皇室の装束を製作し続けております 女房装束 奈良時代の女子朝服(朝廷の公事にさいして着用する衣服)は時の移り変りとともに変化をなし、平安時代に公服でありながら私生活的衣服の要素が加わってい

    hiroette
    hiroette 2007/04/01
    重厚な質の高い、本来の装束を製作。服装に関する知識を学術的に提供。服装史、染織史等について、研究。平成度も品格の高い皇室の装束を製作。始めたのは元皇族の人
  • 腰蓑をつけ、獣皮をかけた婦人・縄文式文化の時代・服制の成立 日本服飾史 資料・風俗博物館~よみがえる源氏物語の世界~

    の先史時代の石器時代は紀元前三世紀頃まで続くが 狩猟や漁労を主としたこの時代には縄文式土器の使用が見られた。大陸の文化から孤立し、其の範囲は北海道から沖縄迄及んでいた。貝塚土器や土偶でその生活の一端をしのぶことが出来る。 数十年前まで石器時代そのままの生活をしていたといわれる濠州のアボロンジーという民族が裸身であるのに対して、日の土偶には下半身の腰を覆うものや上半身の衣や顔面の覆いさえも窺われる。編物として細い繊維を編んだ布が土器の圧痕で推定され 後期には織物の実物も発見されたという。樹皮をうちくだいたタパのような繊維製品もあったのかも知れないし、魚皮、獣皮も用いられた事もあろう。 ここでは鹿の夏毛の皮を上半身の衣とし、繊維を撚って紐状としたものを連ねて下半身を覆う腰蓑とした姿を想定してみた。 [参考 愛媛県上浮穴郡美川村上黒岩、岩陰遺跡出土の線刻の女神像に腰紐と腰蓑が見られる。]

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