ブックマーク / hituzinosanpo.hatenablog.com (260)

  • 2010年 4月6日 宮下公園「ニートはジャズ」ライブ映像。 - hituziのブログじゃがー

    社会運動を うたいあげる音楽集団「ニートはジャズ」は、2010年 4月6日に 東京 しぶやの 宮下公園でライブをしました。 ユーチューブ(YouTube)にライブ映像を公開したので、おたのしみください。字幕つきです。 参加メンバー: さるとら=id:sarutora(電子ピアノ、うた) やねごん=id:lever_building(ギター) ツネノ=id:toled(うた) あべ=id:hituzinosanpo(うた、すず) 演奏した曲目は、つぎのとおりです。 「ニートはジャズ」うた:あべ 「わしら、スターダストや」うた:あべ 「イシハラ都知事の寓話」うた:さるとら 「アリラン」 「かたこりは労働災害」うた:あべ 「キャバクラユニオンのうた」うた:あべ 「ユニオンWAN、宮下公園」うた:ツネノ 「ケーサツよ、ニートになれ」うた:あべ 「おかやまの わらべうた」うた:あべ 「インターおろし

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  • 『月刊イオ』2010年 5月号。特集「差別なき高校無償化を」。 - hituziのブログじゃがー

    『月刊イオ』2010年 5月号(特集「差別なき高校無償化を」)に、「民族教育を平等に」というエッセーを かきました。40-41ページ。 5月号も、いつもどおり充実した1冊にしあがっているので、ぜひ よんでみてください。 わたしの「民族教育を平等に」という文章は、『月刊イオ』が今年の1月号から連載をはじめた「ブロガーズ@イオ」というシリーズで、ともだちの ツネノさん(id:toled)さんや さるとらさん(id:sarutora)さんも かいています。片山貴夫(かたやま・たかお)さんや なごなぐ雑記さん(id:nagonagu)も。 わたしの「民族教育を平等に」は、このブログで かいてきた「多数派には名前がない」シリーズの問題意識を土台にしています。「学校のなかの問題」だけでなく、「学校のそとの問題」を 改善する必要があると論じました。 関連リンク: 月刊「イオ」★目次 月刊「イオ」★今月の

    『月刊イオ』2010年 5月号。特集「差別なき高校無償化を」。 - hituziのブログじゃがー
  • とーきょーに おでかけ。 - hituziのブログじゃがー

    ひさしぶりに とーきょーへ。4月3日から6日まで。 そーいえば、ちょっとまえに岡山県の総社(そうじゃ)市に いってきました。市役所に いってみたら あれこれ おもしろい はなしが きけました。ことしは地方自治体の いろんな とりくみに注目するつもりです。 岡山県 新見(にいみ)市の電子投票とか。鳥取県 智頭町(ちずちょう)が郵便局と連携して はじめた「ひまわりシステム(ひまわりサービス)」とか。 あとは「外国人相談」や 「やさしい日語」の とりくみ。 いろんな とりくみが つながりを もち、もっと ひろがるようになれば いいと おもっています。つながって、ひろがって、社会全体を かえる。

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  • 国籍差別/民族差別を なくすための読書案内。 - hituziのブログじゃがー

    わたしが問題にしたいのは、「「日人(ヤマト人/和人)」であること」ではない。問題は、属性にあるのではない。どのように行動するのかが とわれるべきだ。 日社会において「民族的な多数派」に「属しているだけ」で批判されるべきではない。だが、この社会に民族差別を のこしているなら、その制度を なおさないといけない。差別制度によって、自分が結果的に得をしているなら、なにを しているわけでもなくても、差別制度に よいしょされた生活をしている。差別を 再生産していると いっても いい。その状況で、「わたしは なにを するのか」ということ。どのように ふるまうのか、ということ。 たとえば天皇制は、戸籍制度とセットになって日社会で生活している ひとたちを しばっている。『非婚の親と婚外子』というで問題にされているのは、婚外子への制度上の差別だ。 戸籍制度は、性別二元論と異性愛主義によって性的少数派を

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  • 無力感が 無責任に つながってしまう。 - hituziのブログじゃがー

    その社会の だれもが、自分は無力だ、社会を かえる ちからはないと感じてしまうなら民主主義の社会ではない。ダグラス・ラミスが いうとおり、「無力感を感じるなら、民主主義ではない」のだ(『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』第5章)。 無力だと おもっているなら、自分の責任など実感できるはずもない。自分に決定権や影響力が あることを 実感するからこそ、自分の やくわりや責任を 自覚するようになる。 「わたしは この社会を かたちづくっている一員なのだ」という感覚。そういう感覚が まず第一に必要。それが おのずと実感できるような社会にしないといけない。そうしていくなかで、自分の社会的位置を 確認し、構造的差別への「責任」を 実感できるようになる。行動できるようになる。 責任を ひきうける。 - hituziのブログじゃがー 要するに、「差別者として自覚する」とか、そういうことは

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    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2010/02/25
    つづくかもしれない。
  • 2010年 2月11日「ニートはジャズ」ライブ。 - hituziのブログじゃがー

    ひさしぶりのライブです。みなさん大歓迎。ニートのあした1周年記念です。 「ニートはジャズ」ライブ(紀元節を ぶっとばせ スペシャル) バンド:ニートはジャズ じかん:2010年 2月11日 15時から(14時 開場) ばしょ:カフェ コモンズ(おおさか。たかつき) 出演者 さるとら(id:sarutora。キーボード、うた) やねごん(id:lever_building。ギター) ツネノ(id:toled。演説) あべ(id:hituzinosanpo。うた) ほか。 ライブを ウェブで生放送します(ユーストリーム:ニートのあした放送か、ジャスティンTV:ニートのあした放送の どちらかで配信。当日にニートのあしたで おしらせします)。 ライブの曲は、ライブのあとでウェブに公開します(mp3とユーチューブ)。 定番の曲も 新曲も やります。「わしら、スターダストや」、「ケーサツよ、ニートにな

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    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2010/02/03
    会場:カフェ コモンズ。おおさかの たかつき。アクセス:JR京都線「摂津富田」駅下車、南出口より徒歩2分。阪急京都線「富田」駅下車、北出口より徒歩1分。
  • 映画『ブタがいた教室』。 - hituziのブログじゃがー

    みるまえ。みたあと。 みるまえ。 こどもだろうとなんだろうと、ブタいっぴき ころせない肉者なんて くそだ。洗練されくさった都会っ子たちの感覚なんか くそくらえってもんだ。 よし。ころせないなら、ベジタリアンになろう! ベジタリアンは たのしいぞ。ベジタリアンは なにも「禁欲の がちがちの ひと」なんかじゃないぞ。もちろん、禁欲なベジタリアンも いても いいけど。肉に制限する生活は じっさい たのしいし、苦痛じゃないし、なんともないことなんだ。肉を たべるのを「がまんしよう」ってことじゃないんだ。肉を たべない たのしい生活を、ちょっとでも あじわってみようぜってことなんだ。一日だろうと、週末だけだろうと。毎日だろうと。自分なりのベジタリアン生活を。 どっちみち、肉を たべるってことは 動物を ころすということ。そして、動物を ころすということは そんなに苦痛なことじゃない。わくわくする

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  • 漢字は、まちがえるのが あたりまえ。 - hituziのブログじゃがー

    漢字の よみまちがいで ひとを ばかにする反動保守を ゆるさない。 - hituziのブログじゃがーの つづきです。 うえの文章と あわせて よんでください。 ともだちに『カナ ノ ヒカリ』2009ネン、ナツ ゴウ(944ゴウ)を もらった。 『カナ ノ ヒカリ』とはザイダン ホウジン カナモジカイの機関誌です。購読すると2部もらえるので、購読している ともだちに もらっています。 さて、つぎの文章を 紹介します。 フジワラ タダシ「首相の漢字力不足と文化審議会の認識不足」『カナ ノ ヒカリ』944ゴウ、2-3ページ フジワラは、麻生太郎(あそう・たろう)が「国会答弁などで 漢字の ヨミを たびたび まちがえたことが 報道され、話題に のぼった」こと、その「マチガイ」を 紹介し、つぎのように かいている。 これについて、首相は「マンガ ばかり よんで いるからだ。」などと 批判され、また、

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  • 『社会言語学』9号 - hituziのブログじゃがー

    ついに、『社会言語学』9号が できました。 テーマ別に紹介します。 障害学 打浪(古賀)文子(うちなみ(こが)・あやこ)「障害者と情報アクセシビリティに関する諸課題の整理−情報保障の概念を中心に」 あべ・やすし 「言語という障害−知的障害者を排除するもの」 田中邦夫(たなか・くにお)講演録「情報はどう保障されているか−中途失聴者から見た現状」 すぎむら なおみ 書評 「LLブックを学校へ! 藤澤和子(ふじさわ・かずこ)・服部敦司(はっとり・あつし)編 『LLブックを届ける やさしく読めるを知的障害・自閉症のある読者へ』(読書工房、2009)」 日教育 すみ ともゆき 「教科日語における漢字のカベ−その予備的考察」 足立祐子(あだち・ゆうこ)「第二言語としての日教育の課題」 布尾 勝一郎(ぬのお・かついちろう)「インドネシア人看護師・介護福祉士候補者受け入れに関する新聞報道−「日

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  • 日本語表記と共存について(結論だけでなく、プロセスも たいせつ)。 - hituziのブログじゃがー

    かながきの ぶんしょうは なぜ 「よみにくい」と いわれるのか? - やねごんの にっき やねごんさんの問題提起を うけて。わたしなりに。 『月刊ノーマライゼーション』という雑誌がある。いちど、翻訳を のせたことがある。ウェブに公開されている。 文学にみる障害者像-映画化された『マラソン』 わたしの卒業論文 「現代日における「識字」のイデオロギーと漢字不可欠論」で、『月刊ノーマライゼーション』に 掲載された いくつかの文章を とりあげた。つぎのようなことだ。 『月刊ノーマライゼーション』2000年12月号に、「外国人」(日語学習者)による日語の文章が のっている(63-67ページ)。 韓国人の文章:漢字まじり。わかちがき。 マレーシア人の文章:漢字まじり。べたがき(わかちがきでない)。 モンゴル人/タイ人の文章:ひらがな、カタカナ表記(漢字なし)。わかちがき。 わたしは「ノーマライゼ

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  • フライパンで グラタンをつくる。 - hituziのブログじゃがー

    こんばんわ。出張料理人の あべちゃんです。 最近は 職場(福祉施設)で料理するのが ひそかな たのしみになっています。なんか、「専属のコックになれば いんじゃないの?」という こえまで いただいております。 きょうは、かぼちゃのグラタンを つくりました。フライパンで やきました。 フライパンで コーンスターチ(要するに、でんぷん)と牛乳を まぜたものを 加熱し、しばらく こねる。それを 容器にいれる。とろとろの状態で かたまる。 おなじように、かってきた「かぼちゃのポタージュ」を とろとろに かためる。 じゃがいもと かぼちゃを ゆでる。みずを きる。 ハムと たまねぎと えりんぎを よく いためる。塩味を つける。 ペンネを ゆでる。 フライパンに すこしの油とバターを しいて、うえのものたちを もりつける。加熱して、ふたを する。 途中で 全体にチーズを ふる。さらに加熱する。 皿に

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    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2009/11/11
    id:tari-Gさん、すくなくとも、テフロン加工のフライパンは空焼きしない、加熱しすぎないようにしないと有毒ガスがでる、というのは たしかのようですね。それは経験的にも わかる気が。追記しておきます。
  • 社会的排除について。 - hituziのブログじゃがー

    まえから かこうと おもって かいていなかったのが、「社会的排除」とは どういうことかということです。何度も このブログで社会的排除を 批判してきたのですが、ちゃんと説明していなかった。 岩田正美(いわた・まさみ)『社会的排除─参加の欠如・不確かな帰属』有斐閣(ゆうひかく) いいです。おすすめします。 岩田さんは「まず、社会的排除という言葉は、それが行われることが普通であるとか望ましいと考えられるような社会の諸活動への参加の「欠如」を、ストレートに表現したもの」としています(22ページ)。具体的には、つぎのように「空間的排除」と制度からの排除/制度による排除を あげています(28-32ページ)。 その一つは空間的な側面である。すなわち、社会的排除は、しばしば特定の集団を特定の場所から排除し、その結果排除される人々が特定の場所に集められる。また、その結果として、特定の場所それ自体が、排除さ

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    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2009/10/25
    つぎに「脱施設(地域移行)と 地域づくり」、「刑務所から みた社会的排除」、「地域づくりとしての野宿者支援」という記事を かきます。
  • 「セクシュアルマイノリティ傾向」ですって? - hituziのブログじゃがー

    1ヶ月まえのことですが、障害学会第6回大会(障害学会・2009)に いきました。いろいろと かんがえることはあったのですが、ひとつ「ええー」と感じたことについて。 杉崎 敬「知的障害当事者の<生き様>から見える多様なセクシュアリティの形――知的障害と共に生きる<彼ら/彼女らなり>の<リアリティ>とは何か」 うえの報告原稿にも でてきますが、「セクシュアルマイノリティ傾向」という表現に とまどいました。おかしな表現だと感じました。引用します。 2.“男が好き、男性と女性をはき違えている”(Bさん:男性・60歳) セクシュアルマイノリティ傾向があるBさん。同じGH内に好意を抱くUさん(30代男性)と担当職員Iさん(30代男性)がいる。Bさんの自室には、Uさんの写真が数多く貼られており、その思いの強さがうかがえる。15歳から施設へ入所、その後35年間施設で育った。32歳の時に、友達(男性)との性

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    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2009/10/24
    なんかもっと じょうずに説明できそうな気もするけど…。修行が たりない。わたし。
  • できるだけ たくさんのひとが社会的排除を 批判する。 - hituziのブログじゃがー

    ひとりずもうを します。 たいせつなのは、みんなが社会的排除を 批判することだと おもう。 さまざまな社会問題がある。それを 問題化するときに、構図を みたてる。被害者と加害者というように。けれども、そういう構図は現実そのものであるとは かぎらない。現実は、ふくざつ。境界線は、ひけない。連続している。つながっている。 なにか問題提起するときに、構図が必要になることがある。その構図では不十分だったり、不適切だったりするという問題提起もできる。それも必要な視点。 女性差別を 問題化しよう。でも、「女性」って なあに?という視点も わすれずにいたい。それを 両方 みすえることが たいせつ。 日社会や日政府を 批判すると、「日人ではないはず」と みなされることが よくある。たとえば わたしの議論を みて、「在日朝鮮人なのだろう」とか、「韓国籍なんだろう」と かんがえる ひとが いる。うんざり

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    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2009/10/23
    とりとめもなく。/疑問に感じた ひとは、「社会的排除について。」を よんでください。http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20091024/1256396419
  • 差別されるということ(登校拒否について)。 - hituziのブログじゃがー

    <普通>と<登校拒否>をめぐって - 登校拒否への道(とうこうきょひへの みち) 常野雄次郎(つねの・ゆうじろう)さんの4年以上まえの記事ですが、最近 よみかえしてみました。疑問に おもったことを かきます。つぎの部分です。 登校拒否と名付けることやカテゴリーに括ってしまうことは「暴力」である。しかし逆に、その暴力があってはじめて、登校拒否を社会問題として提起することが可能になる。となると私たちは、登校拒否という「名前」を単純に否定することもできなければ、肯定することもできないジレンマに直面していることになります。 どうにも、おかしなはなしです。この発想は「なぐられることによって、「なぐるな」!と反発することができる」というようなものです。 たいせつなこと、おぼえておくべきこと。それは、 「差別されるということは、抑圧されると同時に 名前を つけられるということだ」ということです。だから、

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  • うばわれたら、それが魅力的になる。 - hituziのブログじゃがー

    ありふれているものは、それほど ありがたいとは感じないものです。どこにでもある。なんでもないもの。それは、意識することなく やりすごすことができるものです。 けれども、一度 うしなってしまえば、その たいせつさが身にしみるということがあります。 また、ほかのひとは当然のように たのしんでいて、自分だけが とりのこされていれば、それが なんであれ くやしく感じることになります。「わたしも!」と、いっしょに やりたくなります。うばわれたら、それが魅力的になるということです。 「朝鮮人になりたい」 - 訳者あとがきβ版(やくしゃ あとがき べーたばん) うえの記事から一部を 引用します。できれば、うえの記事の全文を よんでください。 それらの意義深い出会いのなかでも、最も強烈に私の記憶に残ったのは、元山[ウォンサン]の幼稚園でのワンシーンだ。同行した写真家の伊藤孝司さんが、子どもたちにレンズを向

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  • 「革命」と「少しずつよくなれ」 - hituziのブログじゃがー

    わたしは坂口安吾(さかぐち・あんご)の影響を かなり うけています。 安吾は、革命について、つぎのように のべています。 そのときも私が思ったのは、革命だの、国家永遠の繁栄のため、百年千年の計のため我々がギセイになる、そういうチョットきくと人ぎきのいい甘ッチョロイ考え方がナンセンス、又罪悪であり、人間はギセイになってはならぬ。自分一人好きこのんでギセイになるなら話は別だが、個人としての自我とは別に、社会人としての我々は誰のギセイになる必要もない。 人間は各人が各人の時代にだけしか生きられないものだから、その時代に於て最善の人生をつくったり享楽したり耐え忍んだりするべきもの、後世のためにまで自分がはからうオセッカイはいらないことだ。各時代が各時代の最善をつくし、誰もギセイにならずに、すこしずつ良くなる。そうしてバトンを渡す。 我々が千年万年、否、人間最後の理想社会などというものを設定し、今す

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  • 戸籍制度廃止にむけた読書案内。 - hituziのブログじゃがー

    ずっとまえから戸籍制度の問題について、長文を かきたいと おもっているのですが、いまだに かけていません。ふがいない。まずは、文献案内を かくことにします。とウェブに公開されている論文などを 紹介します。まだ よんでないものばかりですので、みなさんと いっしょに よんでいきたいと おもいます。よろしく おねがいします。 なお、戸籍制度は、ちょっと しらべてみるだけで、やめるべきものだということが わかります。ですから、どれか ひとつだけでも よんでみてください。 戸籍制度についての 佐藤文明(さとう・ぶんめい)『フォー ビギナーズ 戸籍』現代書館 佐藤文明『戸籍が見張る暮らし』現代書館 佐藤文明『戸籍がつくる差別』現代書館 佐藤文明『戸籍うらがえ史考 戸籍・外登制度の歴史と天皇制支配の差別構造』明石書店 佐藤文明『プロブレムQ&A 戸籍って何だ』緑風出版 佐藤文明『ウーマンリブがやって

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  • わたしたちは、わたしも あなたもフェミニズムの当事者だ。 - hituziのブログじゃがー

    ちょっと なつかしい。 わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ - hituziのブログ 無料体験コース 反ベジタリアニズムの思想の もちぬしが、ベジタリアンを限定形容詞にしてしまうのだ。なぜか。そうすることによって、ベジタリアニズムを他人ごとにしたいからです。にげたいからです。自分から、きりはなしたいからです。自分とは関係のないことにしたいからです。 きょうは、野菜をたべよう。そんなとき、あなたは すてきなベジタリアンです。 きのうは肉をたべました。それでも、あなたはベジタリアンです。 そういった ゆるい思想。ゆるい連帯。資格をとわない社会運動が必要なのです。 きょうは、「フェミニズムは、みんなのものだ」というはなしです。 ええと、いつもながら あたりまえのことを かきます。 性差別に反対するということは、なにもフェミニズムなどと なづけるまでもなく、当然のことだ。女性だからとい

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    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2009/10/01
    「フェミニストは…」といって、自分からフェミニズムを きりはなすな、だって みんなが当事者なんだから、というはなし。/あと、「サヨク」について、すこし。/"もちろん、たちばには ちがいがある"
  • 集団に あまえて 罪悪感を ごまかすな。 - hituziのブログじゃがー

    集団は、こわい。 わたしも、あなたも なんらかの集団に属している。ある視点に たてば、こんな集団に。自分で はいった このグループに。あるいは、なになにという属性に属すという意味で。 人間は、ひとりなようでいて、そうでもない。集団で 活動している。集団に ささえられている。集団に同化している。そして同時に、ある集団から距離をとっている。ひとりであろうとすることもある。 めに みえるかたちで、集団で うごいているとき、自分の意思や行動というものは、その集団に同意し、同化しているかぎりは、めだたないものです。自分の やることなすことは、ちいさなものに感じられます。 集団との葛藤(かっとう)が すくなければ、感覚も よわくなります。さまざまな感覚が。 「赤信号、みんなで わたれば、こわくない。」 集団にも、いろいろあります。なにかに ささえられている集団。数のうえで圧倒的な集団。権力が支配的な集

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