2016年1月は、「アラブの春」から5周年にあたる。11年にチュニジアから始まった変革が、1968年の「プラハの春」のひそみにならって、アラブの春と呼ばれたのはさほど遠い過去ではない。変革の波がチュニジアからエジプトに波及すると、公権力の抑圧にもまして市民同士の対立も生じた。しかしリビアやイエメンそしてシリアに民主化の動きが移ると、市民の抗議運動は武力衝突から内戦に変じた。 そして、「シリアの春」を挫折させたのは、アサド政権の否定と擁護の違いを問わず、外国勢力が公然と軍事干渉したからだ。イスラーム国(IS)の力が伸びると、ロシアとイランはテロとの戦いを大義に、アサド政権の代わりに内戦を公然と「シリア戦争」にエスカレートさせたのである。 アサド氏主役の和平ゲーム シリア戦争終結のためのジュネーヴ会議の協議ははかばかしくない。当然であろう。最高交渉委員会なるブロックをつくって会議に参加した「穏