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精神に関するhystericgrammarのブックマーク (29)

  • 不安の精神病理学 再考 8

    ただしこの図式で一つ気になる点がある。それはCSTCループは情動部分を含んでいないであろうからだ。「皮質(頭で考える)→ 線条体、視床→皮質(頭で考える)」というのは結局考えがグルグル回っているということだ。つまりここは不安の苦痛部分を説明していない。しかし不安という明らかに苦痛を覚える現象は情緒に関する脳のどこかの部位を刺激しているはずなのだ。とするとそれはやはりこの時も扁桃核→報酬系を「やんわりと」刺激しているということになるのではないだろうか?つまり不安という体験においては結局は恐怖の前触れforetaste of fear を体験しているのではないか。 私は小学6年のころ何度も扁桃腺が腫れて、除去手術をすることになった。そして夏休みに扁桃腺の片方(右?左?)の除去の手術を行った。麻酔もほとんどなく、とても苦しかったのを覚えている。最初はどんな手術か全くわからなかったから、とても不安

  • 不安の精神病理学 再考 10

    ちなみに不安と予期との関係を考えていくと、まさにOCD(obsessive compulsive disorder がそれだ。日語ではまとめて「強迫性障害」となり、obsession 強迫思考と、compulsion)強迫行為を区別できないが、前者はヤバい思考であり、それを搔き消すために後者が行われるという仕組みである。鍵をかけていないかも知れない、という強迫思考 obsession が生じ、鍵をチェックするという行為 compulsion によりそれが(一時的にではあれ)解消する。その繰り返しである。「鍵がまだかかっていないのではないか」、という考えがなぜ不安なのだろうか? おそらくそこに合理的な説明は何もない。しかし「どうして鍵をかけていないことが不安なのですか?」と問うと、当人からは大袈裟ながら全く否定することもできない答えが返ってくるだろう。「外出して不在の間に誰かが押し入って金

  • 不安の精神病理学 再考 6

    ある患者は無限を考えていくと突然何かに吸い込まれるような恐怖に代わったという。皆さんにこんなことを尋ねてみようか。宇宙の膨張収縮説というのがある。これをビッグバン仮説ならぬビッグバウンス説というらしいが、要するに宇宙の終わりはなく、それは膨張を続ける宇宙がいずれは収縮にて転じてやがて一点に集まり、そこからまたビッグバンが始まるということを永遠に続けているというのだ。いったいこの膨張と収縮の一サイクルは何年かかって生じるのだろうか。片道だけで1400億年とかの数字も見られる。ともかくもこの理論で言えば宇宙の寿命は永遠だし、この宇宙だって第何サイクル目なのか見当もつかない・・・・。さてこんなことを考えて胸はざわつかないか? 永遠ということを考え出した時に、私たちの思考はある種の渦巻きの中に吸い込まれる気がする。私達は一日先を想像することが出来るし、10年先もまあ出来る。でも100年先となると色

  • 不安の精神病理学 再考 5

    私の考える不安の質 ここでもう少し私自身の考察を深めてみよう。私はよく不安に駆られるが、そこにはいくつかのパターンがある。しかし概ね(このまま行くと)将来ある種の苦痛を味わうかもしれない、という予期不安の形を取りやすい。と言うよりか、予期分の形を伴わない不安はあまり考えられない。ではこの将来のある種の苦痛をどのように規定するかと言えば、それはカタストロフィー、つまり破滅である。起きうる最悪の事態、そしてそこには強烈な苦痛が伴うような事態である。不安はそれに対して「用心せよ」という警告だ。そしてそのカタストロフィーは別に「死」である必要はない。「不死」もそれが恐れるべき事態となり得る。 どうして予期不安が生じるかと言えば、それは私たちが人間だからだ。人間は人間以下の動物に比べて未来を予知することが出来る。そしてそれを回避するための手段を持つことが多い。しかしそれが回避できないとしても、身構

  • 精神科医にとっての精神分析 8

    さてではどうして一方では自然科学の様々な分野で多くの研究の成果が挙げられているにもかかわらず、精神医学や精神分析ではその様な発展が顕著に見られないのでしょうか?一つには私たちの心の座である脳があまりにも複雑すぎて捉えどころがないからです。でもやはり脳から出発しなくてはならないでしょう。精神分析を論じるのにどうして脳が出てくるのかとお考えになるかもしれませんが、フロイトが最初にそうしたからです。 考えても見て下さい。今から100年前、フロイトは精神科医であり、新しい心の理論を打ち立てたわけです。フロイトはかなり実証主義的な面を持っていましたから、そして何よりも病理学者でしたから、心としてかなり具体的な仕組みを考えていたわけです。しかし彼が生きた時代は神経細胞を見出すことしかできなかった。そこではファイ、プサイの二種類の神経細胞を分類してそこから心の理論を立てようとした。今は私たちははるかに進

    精神科医にとっての精神分析 8
  • 他者性の問題 111 一つの体験はN次元上の一点である

    Edelman とTononiの「心は一つ」という考えをもっとも端的に示しているのが、「神経参照空間neural reference space」(p.164)という概念で、これは特定の心理現象の際に活動している神経細胞群をさす。そしてこの空間はN次元であるとする。ところがこのNはその体験に付随している神経細胞の数であり、それを彼らは103~107 と表現している。すると一つの体験はこのN時空間の一点に表されるということになる。そしてある瞬間の体験が唯一の点として表される以上、その心が部分であると考えることに何の意味もないことになるのだ。 このN時空間という考え方がぴんと来ない場合には、次のような例を考えると良い。私達はさまざまな色を知っているし、体験している。しかしそれは網膜上の三種類の円錐細胞(それぞれ、赤、青、黄色に反応する)の強度の組み合わせにより決まっている。 Calvin, W

    他者性の問題 111 一つの体験はN次元上の一点である
  • 『精神科と身体科の診断の相違』

    同じ症状を診ても、精神科と身体科では診たてが異なる。例えば嚥下障害。 ある時、僕の患者さんが内科に入院したと連絡があった。その患者さんの重要視された症状は「嚥下障害」と言う。 ところが、入院後も全然改善しなかったらしい。入院した理由は訪問看護(当院ではない)で様子がおかしく、入院させた方が良いと判断されたのである。 嚥下障害が一向に改善せず年齢的にも自宅に戻ることは難しいと判断されたようであった。年齢も考慮し施設入所になる見通しだった。しかし家族はそれに同意しなかった。 細かい経緯は忘れてしまったが、嚥下障害の背景は精神科的には昏迷が疑わしいと思われた。なぜなら、その人は病状悪化するといつもそうだったからである。 昏迷と言うと、すぐに統合失調症と思われがちだが、来そこまで疾患特異性がない。 過去ログで挙げた昏迷になりうる3大精神疾患。 1,統合失調症 2,躁うつ病 3,ヒステリー(神経症

    『精神科と身体科の診断の相違』
  • 他者性の問題 106

    ところでN(neural corelate of consciousness) としてはダイナミックコア以外にも、Baars のグローバルワークスペース global workspace の理論がその候補として挙げられよう。 Baars(1988, 1997)が提案するグローバルワークスペース説によれば、人間の認知システムは、同時並列的に作動する、多数の神経表象媒体と消費システムから構成されており、それら各々は特定の処理機能に特化し、無意識的に作動することができる。では 無意識的な内容の表象と、意識的な内容の表象は、認知システムにおいてどのような機能現象性へのアクセス 的差異を有するのだろうか。その答えは、無意識的な表象内容が特定の消費システムにお いてのみ処理されるのに対し、意識的な表象内容は、一連の認知過程の出力を可能にする任意の消費システムにおいて処理されうることだ。それゆえ表象内容

  • 他者性の問題 105 ダイナミックコアの図の描きなおし

    English (1) English entry (1) win-win (3) いじめ、自殺 (1) うつ病 (16) オタクについて (11) チビの後ずさり (2) ニューラルネットワーク (1) パリ留学 (27) 愛他性 (1) 解離 (18) 解離、挿絵 (2) 快楽原則 (26) 閑話休題 (1) 関係性のストレス (5) 気弱さ (1) 現実、 (1) 治療論 (28) 治療論(改訂版) (10) 自己開示 (2) 失敗学 (19) 女性性 (1) 小沢さん (1) 上から目線 (2) 心得23 (1) 心得7 (1) 心得8 (1) 真面目さ (1) 親子の関係 (16) 生きがい (1) 精神科医 (1) 精神科面接 (11) 精神分析 (3) 精神分析と言葉 (3) 対人恐怖 (21) 怠け病 (11) 男はどうしようもない (1) 恥と自己愛 (11) 怒らないこ

    他者性の問題 105 ダイナミックコアの図の描きなおし
  • 他者性の問題 104 ダイナミックコアモデルについての説明部分の推敲

    他者性の神経学的基盤 心とは神経ネットワークである 章では書でテーマとなっている「他者性」にどのような生物学的な裏付けがあるのか、そしてDIDにおいて交代人格が成立する際にそれがどの様な実態をともなっているかについて考える。ただしそれは大変難しいテーマでもある。心とは何か、それが脳の組織とどのように関係しているかは、David Chalmers の言う「難問 hard problem 」に関わる問題である。そこに様々な仮説は存在していても、一つの正解を見つけることはできない。その上にDIDで問題となるような、心が複数存在する際のモデルを考えるとなると、これは不可能に近い。だから章の内容はあくまでも仮説であり、私の想像の産物であることをお断りしたい。ちなみに現在の医学関係の学術論文はそのほとんどが「量的研究」と呼ばれるものであり、そこでの科学的なデータが極めて重要な意味を持つ。いわゆる

  • 他者性の問題 101 「心はそもそも一つである」の続き

    意識とはあるクオリアの伴った体験を持つものと私は定義したいが、その際意識は統合されている。つまり断片的な意識、等というものはない。私が書の後に引用することになるG.Edelman とJ.Tononi のThe Universe of Consciousness というを引用しよう。ちなみに彼らは意識というものを脳科学的に理解しようとこのを書いたが、このの題名のように、彼らは意識を一つの宇宙とまで称している。 ところで Edelman らは意識として二つの特徴を上げる。一つは統一性 integration であり、意識は一度に一つのタスクしかできないことだ。例えばある会話を続けながら足し算をするなどという事は出来ない。それでいて極めて分化した作業をできることである。つまり私たちの脳はとても複雑な作業をしながら、統一性を失わないことだというのである。この点はかつて Sherringto

  • 他者性の問題 100 心はそもそも一つである

    心とはそもそも一つである そこで冒頭ですでに述べた点について論じることになる。そもそも心とは一つではないだろうか?そもそも私たちが何かを体験するとは、一つの心が体験しているのではないか? 私が決まって出す例をここでも出す。目の前に赤いバラがある。「あ、バラだ、きれいだな」という体験を持つ。いわゆるクオリアとはそのようなものだ。クオリアとは、ラテン語 qualiaで、私達が意識的に主観的に感じたり経験したりする「質」のことを指す。この様な体験をするとき、私の心は一つである。つまり同時に他のことは考えないのだ。ところがこのような主張はすぐさま反論に遭う。よくアンビバレンスという言い方がある。両価性、ともいう。一つの心があるものに対してしばしば正反対の感情反応や価値判断を下すことをいう。例えば先ほどのバラの例であれば、心のどこかで「毒々しい色のバラだな」という反応も起こしている可能性がある。思う

    他者性の問題 100 心はそもそも一つである
  • 他者性の問題 90

    結論 最近のDIDをめぐる動きをどのようにとらえるか 以上二章にわたって司法領域における解離性障害、特にDIDについて論じた。その全体をまとめてみよう。まず司法では責任能力という概念が極めて重要になる。それは被告人をどの程度罰するかという判決を下すために重要な概念である。医学では対象者(患者)がどの様な病気に、どの程度苦しんでいるかが問題とされる。しかし司法ではその人がどの程度「罪深いか」が問題となる。つまり司法では医学とは違い、患者に対して全く異なる視点からその処遇を検討するわけであるが、私はこの問題にも他者性のテーマが絡んで来ることになる。端的に言えば、DIDにおいては、自分ではなく、他者がその罪を犯したと考えられる場合があるからだ。例えばAさん自身には罪を犯す意図はないにもかかわらず、他者としての交代人格Cさんが違法行為を行うという事態が生じているのである。私はこのような事態をプロト

  • 脳、神経、心、意識、主観~「精神」とは何か~

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    脳、神経、心、意識、主観~「精神」とは何か~
  • 他者性の問題 86 解離性障害と差別の章の加筆

    解離性障害の場合はどうか? さて同様の議論は解離性障害についても当てはまると私は考える。解離はその定義を広くとるならば、意外と日常生活で体験されているものなのだ。以下に前々書(岡野、解離性障害 岩崎学術出版社、2007年)で紹介したColin Ross (1997) の表を再び示そう。 心理的な(機能性の)解離と生物学的な(器質性の)解離(C.Ross, 1997) Ross, C.A. (1997) : Dissociative Identity Disorder. Diagnosis, Clinical Features, and Treatment of Multiple Personality. Second edition. John Wiley & Sons, Inc. New York この表に示されたとおり、健常な解離は夜中に短時間覚醒した際、あるいは日中覚醒時にボーっと夢

  • 他者性の問題 84 「障害」という表記の部分も加筆した

    「障害」の概念とその表記の仕方 この問題について検討する前に、そもそも障害や疾患とは何をさすのかについて少し論じよう。最近ではわが国では少なくとも精神科領域では「精神疾患」の代わりに「精神障害」の表現が用いられるようになって久しいが、それは欧米の診断基準である DSM や ICD が標準的に用いている “disorder”(通常は「 障害」と訳される)という呼び方に対応して用いられているという事情考えられる。しかし「精神障害 」の「害」の字は明らかにマイナスイメージが付きまとうということから、最近では代わりに「障碍」ないしは「障がい」という表記をすることが多くなってきた。(ただし「碍」という文字の語源を調べると、これにも同様にマイナスな意味が含まれるようであり、果たして「障碍」への置き換えには意味があるのかという疑問も生じる。) そして最近はこの disorder がさらに「症」と訳される

  • 精神疾患の分類なんて簡単だなんて言わないよ絶対

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    精神疾患の分類なんて簡単だなんて言わないよ絶対
  • 他者性の問題 83 「部分としての心はあるのか?」についての章の書き出し

    「部分としての心」は存在するのか? 書で取り上げている交代人格の人格としての在り方という問題意識は、しかしそれより一段階上のレベルの問題と関連している。それはそもそも心とは部分でありうるか、という問題だ。つまりこれは交代人格に限らない心の在り方を問い、それが基的に部分ではありえない存在であり、統一体としての要件を備えているはずであることを示したいのである。すなわち心とはすなわち部分ではありえないという事を示すことで、交代人格も当然ながらその例外ではないから、部分ではありえないという論法を取ろうと考えているのである。だから章の記述は交代人格よりは人格一般、心一般をテーマとしていることを最初にお断りしたい。 さて部分としての心、という事で私が思い出すのは、Shel Silversteinの「僕を探しに The Missing Piece」という絵である。主人公はいつも何かが欠けていると

  • 他者性の問題 82 一部改稿した

    DIDの裁判 最近の動向 再び上原氏の2020年の論文に戻ってみる。そこで上原氏が中心的に論じているのが、平成31年3月の覚せい剤取締法違反事件である。この裁判ではDIDを有する被告人は覚せい剤使用の罪で執行猶予中に、別人格状態で再び使用してしまったという。そして原級判決では被告人に完全責任能力を認めた(つまり全面的に責任を負うべきであるという判断がなされた)が、控訴審では被告人が別人格状態で覚せい剤を使用したために、心神耗弱状態であったと認定したのである。 ちなみにDIDにおいて責任能力を認めるか否かという議論には、精神医学的な見地が大きく関係している可能性がある。そして裁判においても、精神科医による精神鑑定の見解をできるだけ尊重するという立場が最高裁において下されているという(上原、2020)。この上原氏の紹介する覚せい剤使用のケースではそこで私的鑑定を報告した精神科医の意見が尊重され

  • 「意志が弱い人はうつ病になれない」、カリスマ精神科医が医学部の講義で言ったこと。

    おれは医者ではない。医学生でもない。患者である。精神障害者である。双極性障害(躁うつ病・双極症)II型である。手帳持ちである。「当事者」と呼ばれる人間である。 おれはおれの病気について語るのが好きだ。 自分に興味があるというか、自分に取り憑いた病気に興味があるというか、なんと言うていいかわからないが、とにかく自分の病気について発信したいという気持ちがある。 そして、発信する前に、自分の病気について知りたいという気持ちがある。 当事者の、そして医師の話を聞きたいと思う。なので、いろいろな精神病のなどを読む。 これがおれだけの話なのか、双極性障害の人間ならではなのか、病気になった(障害を持った)人間ならではなのかはわからない。 というわけで、精神科医の書いたなどを読む。 すると、たまに出てくる名前がある。神田橋條治である。 最初に見かけたのは中井久夫のだったと思う。 『双極II型障害とい

    「意志が弱い人はうつ病になれない」、カリスマ精神科医が医学部の講義で言ったこと。