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他者性の問題 100 心はそもそも一つである
心とはそもそも一つである そこで冒頭ですでに述べた点について論じることになる。そもそも心とは一つで... 心とはそもそも一つである そこで冒頭ですでに述べた点について論じることになる。そもそも心とは一つではないだろうか?そもそも私たちが何かを体験するとは、一つの心が体験しているのではないか? 私が決まって出す例をここでも出す。目の前に赤いバラがある。「あ、バラだ、きれいだな」という体験を持つ。いわゆるクオリアとはそのようなものだ。クオリアとは、ラテン語 qualiaで、私達が意識的に主観的に感じたり経験したりする「質」のことを指す。この様な体験をするとき、私の心は一つである。つまり同時に他のことは考えないのだ。ところがこのような主張はすぐさま反論に遭う。よくアンビバレンスという言い方がある。両価性、ともいう。一つの心があるものに対してしばしば正反対の感情反応や価値判断を下すことをいう。例えば先ほどのバラの例であれば、心のどこかで「毒々しい色のバラだな」という反応も起こしている可能性がある。思う