天智天皇は、その6年(667)、斉明天皇の御時から都を置かれていた飛鳥岡本宮より、近江大津宮に都を移されました。それまでの多くの都が置かれた飛鳥近辺から離れたこの地ですが、ひとつには、大化の改新の理想に基づいた政治改革を行うために人心の一新を図ることを目的とされました。それとともに、同盟国であった百済への援軍を出して唐・新羅連合軍と戦った、4年前の白村江での敗戦後、本土侵攻への危機が深刻になったことから、国土防衛の根幹として、天然の要害であり交通の要衝でもある大津に遷都したものと考えられています。 5年後に起った壬申の乱の敗戦によりわずか5年半の都に終ったわけですが、この短い期間に大津宮において画期的な新政治を推進されることになり、ひいては近江国・滋賀県の発展の基ともなりました。更にその後を受けた天武天皇は、壬申の乱で対峙したにもかかわらず、多く天智天皇の施策を受け継いでさらに発展させられ
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