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ブックマーク / qfwfq.hatenablog.com (21)

  • The Dust of Time――追悼テオ・アンゲロプロス - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    1月25日朝日新聞朝刊に掲載された斎藤美奈子の文芸時評は、今期芥川賞を受賞した二作を取り上げ、ワイドショーなどで話題の田中慎弥の「共喰い」についてこう書いている。「淀んだ川や釣った鰻が性器の暗喩になっているあたりは陳腐だが、すぐに映画化できそうな、わかりやすいドラマ性を備えている。往年のATG映画ですね、テイストは」 なるほどね。長谷川和彦の『青春の殺人者』とかですね*1。一瞬にして映像が目に浮かぶ。まあ「レッテル貼り」といえばそのとおりだが、さすがにうまい。しかし、「往年のATG映画」といってすぐにピンと来るのは、名画座で追っかけて見た世代を含めてもせいぜい五十代以上の人たちのそれもごく一部だろう。ATG映画の何かは名作として見られ続けてゆくだろうが、総体としての「ATG映画」が時代の中で持っていた意味は、もはや若い世代には伝わらないだろう。そういうものだ。 その日の夕刊に、テオ・アン

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  • 吾らは夢と同じ糸で織られている - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    かつて何かで読んだことがあるか、あるいは、どこかで耳にしたことがあるか、いずれにせよなんらかの手段によって既知のフレーズであることは確かであるけれども、ふとした折にあたかも自分のオリジナルであるかのように口をついて出てしまう言葉というものがあって、十九世紀のフランス社会に流通していたそうした言葉たちを蒐集したものがいまフローベールの著書として岩波文庫に邦訳のある『紋切型辞典』であり、訳者の小倉孝誠が同書の解説で書いているように来は『ブヴァールとペキュシェ』第二巻に収められるはずのものであったことはよく知られている。小倉孝誠は、紋切型は時代と文化に規定されており、「現代の日で誰かが新たに『紋切型辞典』を編纂するならば、その項目と内容はまったくちがったものになるはずである」と書いているけれども、『紋切型辞典』を通覧したものなら、たとえば、個性といえばつねに「きわめて特異な」という形容詞が冠

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  • 批評家浅見淵の本領 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    谷崎潤一郎の「細雪」はよく知られているように戦時下に「中央公論」に連載される予定であったが軍部の忌諱にふれ、二回分が掲載されたのみで連載は途絶した(昭和十八年)。発表のあてのない小説を谷崎は孜々として書き継ぎ、十九年臘月秘かに中巻を脱稿した。谷崎は上巻二百部を私家版として知人に配ったが軍部の干渉は微々たる私家版にも及んだ。このたびは見逃してやるが、また同じことをすると今度は容赦しないからな。緊迫した戦局下において軟弱かつきわめて個人主義的な女人の生活を綿々と書き連ねた小説であるとかれらが指弾したということは、アンソニー・チェンバースのいうように谷崎が「超国家主義や軍国主義を(略)拒絶したということであり、そうすることで政治的な立場をとった」といえなくもない*1。中野重治は、共産主義者が弾圧されていた時代に書かれたこうした浮世離れした小説はどうしても読めないのだとどこかで述懐していたけれども

    批評家浅見淵の本領 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
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    inmymemory 2010/03/12
    谷崎は晩年『細雪』を「あのような風俗小説めいたものにするはずではなかった。もっと女たちの性の秘密を深く掘り下げた、趣の違う作品にしたかった」と無念さをこめて渡辺千萬子に述懐したという
  • 白鳥について私の知っている二、三の事柄 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    前回、浅見淵随筆集『新編 燈火頬杖』の藤田三男による解説文を引いて、「「細雪」の世界」は正宗白鳥によって強く推挽された、と書いた。その後、手許にある白鳥のを拾い読みしていたら、思いがけず当の文章に出くわした。とんだ所へ北村大膳。そのとは昭和三十年に出た三笠新書、『読書雑記』という題名どおりの書物随筆である。吉川英治の『宮武蔵』と『細雪』とを併せ論じた「『宮武蔵』と『細雪』」という長めの随筆で、白鳥はこう書いている。 「『細雪』に関する諸家の批評や感想は、をりをり私の目にも触れてゐる。多くの小説批評の如く、どうにでも云へることをどうにでも云つてゐるのであるが、私としては「細雪の世界」と題して「風雪」に出てゐた浅見淵の批評に最も同感である。」 同感同感、太田道灌。と、さすがに白鳥は書きはしないが、浅見淵の「細雪」心境小説論を引用したのち、政治がどうの経済がどうの庶民の生活がどうの国際関

    白鳥について私の知っている二、三の事柄 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
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    inmymemory 2010/03/12
    江藤は秋山に対し、「批評家で一番偉いのは誰か知ってるか。きみ、それは正宗白鳥に決まってるじゃないか」と語った小林秀雄の言葉を伝えている
  • 去年の雪、いまいずこ - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    そうか、虫明亜呂無も「バンビ」の常連だったのか。刊行されたばかりの虫明亜呂無のエッセイ集『女の足指と電話機――回想の女優たち』を読んでそのことを知った。「秋の出会い」と題されたエッセイは次のような書き出しで始まる。 「阪神第一週を了えた翌日、僕はお初天神裏の「夕霧」に行った。日酒をのみながら、そばをたべた。すだちのかおりが、秋のゆたかな歳月を連想させた。僕はお初天神の庭に、木の葉が舞っているような風景を脳裡に描いた。それから、行きつけの喫茶店「バンビ」で、ジャズを聞いた。日酒の酔いが、強いコーヒーによって調和され、僕はかなりの時間、ジャズに耳をかたむけていた。十二音階をうまくとりいれたモダン・ジャズの魅力が僕をとらえた。その後、サウナに行った。競馬、日酒、すだちのかおるそば、ジャズ、コーヒーサウナとつづいて、僕は秋の阪神の楽しさを満喫した。」 宝塚で阪神競馬を見た翌日、虫明亜呂無は

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    inmymemory 2010/03/12
    こちらはヴィヨンの詩からか。タイトルのつけかたがうまい。そして、ラストの4行がよい。http://intro.ne.jp/contents/2009/04/22_1816.html
  • カエサルのものはカエサルへ - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    昨年の暮、神保町の古書店で一冊の詩集を購った。ある詩人の第二詩集で、わたしは学生時代にその詩人の第一詩集を手に入れた。たびかさなる引越しにも紛れずそれはいまも手許にあり、三十年ぶりに詩人の健在ぶりを知ることになったのだが、その詩集には思いがけない附録がついていた。函から取り出した詩集の表紙をめくると一枚のはがきが挟まっていたのである。はがきには、その詩集のなかのいくつかの詩の題名を挙げ、それらが気に入ったと書かれていた。半分盲目にひとしいので乱文を容赦されたいと書かれた末尾の言葉どおり、細い万年筆で書かれたとおぼしい筆跡は判別もあやういほど頼りなげに歪み、斜めにかしいでいた。そして最後に署名があった。表に宛名は書かれていなかった。はがきの書き手は投函するつもりではがきを挟んでおいたことを失念し、おそらくは家族が他の不要の書籍といっしょに処分したのだろう。詩集が刊行されてから三年が経っていた

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    inmymemory 2010/03/12
    神のものは神に返しなさい、か。なんていい話だろう
  • 本とつきあう法 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    * 桶谷秀昭の「含羞の文学」について以前書いたことがある(id:qfwfq:20080907)。それは中野重治全集第二十五巻の月報のために書かれた随想で、この巻には中野の映画演劇評、読書随想等が蒐められていて、中野の著作のなかでもわたしのとりわけ愛読する一書である。といっても三十巻におよぶ中野の全集を揃いで持っているわけではない。主要な小説・評論等は単行や文庫や各種の文学全集の端で持っているので、そのうえ嵩張る全集を所有する必要も、またその余裕もない。中野は、の函もカバーも捨てる、と巻に収録された『とつきあう法』の「古の始末」に書いている。むろん一冊でもよけいに所蔵するための苦肉の策だが、明治四年刊『訂正古訓古事記』は二百五十グラム、それをもとにした岩波の日古典文学大系版『古事記・祝詞』は八百グラム、ケーテ・コルヴィッツの『選集』は五百グラム、と一々重さを記述しているところが

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  • 1Q84的世界のなりたち - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    「するときみは次がどうなるか知りたくてを読むわけだね?」 「ほかにを読む理由なんて、ないのとちがうっけ?」 ――ジョン・アーヴィング『ガープの世界』 『群像』8月号を図書館で借りて来た。月刊誌はひと月たつと館外へ貸し出してくれるのである。<ムラカミハルキを10倍楽しむ>という特集(文藝誌にしてはネーミングがイマ風だね。むろんX年ほど遅れた「イマ」だけれども)に、「村上春樹『1Q84』をとことん読む」という座談会が載っている。出席者は、安藤礼二、苅部直、諏訪哲史、松永美穂の諸氏。批評家、学者、小説家、外国文学者とジャンル分けにも気配りが行き届いている。座談会の日付は6月21日、この2巻1000ページほどのが出てからまだひと月もたっていない頃に行われたわけで、出席された方々も御苦労なことだ。 座談会では、折口信夫の源氏物語論を参照しながら、源氏物語と『1Q84』の構造の類似を指摘した安藤

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  • 秋風と二人の男 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    男は夕刻に友人と待合せの約束があり出かける用意をすませたが、家を出るにはまだ少し時間が早い。が台所で夕の巻き寿司をつくるのを見るともなく見ている。は木の寿司桶に御飯をうつし団扇であおいで冷ますと、俎板のうえの簀に布巾を載せ、そのうえに海苔をひろげるとしゃもじで御飯を掬って海苔のうえに載せる。具をひとつずつ順々に御飯のうえに揃えて上半身を乗り出すようにして巻きにかかる(堅く巻くにはけっこう力を入れなければならないのだ)。は夫の外出を知らなかったので巻き寿司にしたのだが、せっかくつくったのだからひとつ抓まんでゆきませんかと夫に問う。男はこれから友人と会い酒を酌み交わすつもりなので事をするわけにゆかないが、あまりうまそうなので一口ならいいかとの誘いにのる。は巻き寿司の一を俎板に載せ、濡れた布巾で包丁を湿らせて切り分ける。この端のところがおいしいんです、御飯が少なくて具がたくさんあ

    秋風と二人の男 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
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    inmymemory 2010/03/12
    「庄野潤三『丘の明り』の中にも「秋風と二人の男」のような神品がおさめられている。こういう小説が書けたら、どんなにたのしかろうと思うが、この人のほかには絶対に、誰にも書けない」と永井龍男をして言わしめた
  • 「オリジナル・オブ・ローラ」をごらん! - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    驚いた。近頃新刊書を手にして驚くことは殆どなくなったけれど、このにはびっくりした。 Vladimir Nabokov, The Original of Laura, Knopf. ウラジーミル・ナボコフの未刊の遺作(小説)である。 頁の上半分に手書きの英文が書かれたインデックスカードが(たぶん)原寸大で複製され、下部にはその英文が印刷書体で掲載されている。したがって、1頁に掲載されている英文は10行程度。頁の裏は、インデックスカードの裏になっていて、たいていは白紙、時折り×印が書かれていたりする(×印はどういう意味だろう)。 このは、ボール紙のような厚紙に印刷されているため、280頁のハードカバーだけれど厚みが4センチ以上もある。最初、手にしたときはなぜだろうと不審に思ったが仔細に見て疑問が氷解した。よく見ると、インデックスカードの大きさに沿ってミシン目が入っていて、ミシン目どおりに刳

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  • あなたって何かこう不思議なしゃべり方するわねえ - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    1月27日、サリンジャーが死んだ。享年91。 村上春樹が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を翻訳したのが、つい2、3年前と思っていたが、もう7年前になる。このところ、わたしの身辺ではなぜか3〜4か月ぐらいで1年になる。デフレだかインフレだか知らないが、この傾向は年々加速している。いずれ1年前の出来事を昨日のことのように思いなすだろう。そして、昨日のことは……きれいさっぱり忘れている。はやくそんな日がこないものか。 なにか書こうという気にならないので「2、3年前」に雑誌に書いた文章を埃をはらって掲げておく。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の刊行にあわせて紹介記事のようなものを、という依頼で書いたものだ。紹介記事の文体になっているのがおかしい。野崎孝訳の文体を模倣して書いた戯文とあわせて1頁の記事。掲載時に誌面のスペースにあわせてやや短縮したが、ここではオリジナル原稿をアップする。掲載誌も昨年休

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  • 詞華集顛末記――承前 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    前回のつづき(もう一週間たったのね。まったくもって光陰矢の如しである)。 さて、もう十五年ほども前、いまとは別の出版社に勤めていたころのことである。わたしは前年の春から半ば自ら志願したかたちで京都の社に転勤していた。ある日、呼ばれて社長室へ赴くと、社長は一冊のを手にこういった。 「これで企画を考えてほしいねん」 社長が差しだしたは、ほるぷ出版が出していた近代文学館の名著復刻全集の別巻だった。いまでも古屋でよく見かけるが(わたしも数冊もっている)、近代文学史における折紙つきの名作を初版のままの姿で復刻したシリーズの作品解題の一冊である。社長はその復刻全集を一揃い家蔵していると嬉しそうにいった。 「これ使こて**に出す企画を考えてほしいんや」 **は、大阪社がある大手の通販会社で、主として若い女性を対象に独自に開発したさまざまな雑貨品などの頒布を行なっていた。 社長は進取の気性に富

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  • 書痴あるいは蒐集家の情熱 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    先日、さる方より塚邦雄の『良夜爛漫』を頂戴した。わたしが塚邦雄の大のファンであると御存知で、永年架蔵されていた同書を惜しげもなく下さったのである。『良夜爛漫』は『定家百首 良夜爛漫』より巻頭の「藤原定家論」と跋文を省いた三百十部・限定版で、いずれも河出書房新社刊。『定家百首』は単行も文庫版も持っているけれど、限定版の味わいはまた格別である。麻布のクロス貼函、表紙はインド産羊皮、見返は英国製コッカレル、背に題名の金箔押、文は三色刷、天金。政田岑生装訂。別丁の和紙に毛筆で短歌一首と落款がある。 水無月の沖こそ曇れことわりも過ぎしことばの花實をつくし 編輯は日賀志康彦氏、すなわち歌人の高野公彦である。 塚邦雄には夥しい数の限定版がある。通常市販されている歌集や評論集・小説集にも凝った装訂のが多いが、さらにそれぞれに少部数の限定版がある。また、数十首を纏めた間奏歌集の殆どが限定版である

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    inmymemory 2009/04/06
    ぼくもきっと焼き捨てる
  • ノンちゃんかく語りき - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    を読んでいて思わず「おお!」と嘆息することがある。いまなら差し詰め「マジすか?」とでもいうところだ。光文社古典新訳文庫のカフカを読んだときの「マジすか?」については以前書いたことがある(id:qfwfq:20070909)。最近驚いたのは野上照代さんの書かれた「『赤ひげ』後のクロサワとミフネ」という文章の次のようなくだりに、である。 野上さんは、長年、黒澤明の映画のスクリプターを務めて業界はもとより一般の方にもよく知られ、最近では山田洋次監督の『母べえ』の原作者としても脚光を浴びている。つまり、吉永小百合の演じた母べえの娘にあたる方である。その野上さんに、『赤ひげ』完成パーティのときにというからもう四十年以上前の話だが、黒澤監督がこう囁いたという。「小國に言われたよ。あのミフネはちがうぜって」 小國とは『赤ひげ』の脚家のひとり小國英雄(映画のクレジットは井手雅人、菊島隆三、それに小國、

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    inmymemory 2008/05/16
    これは興味深い
  • 武藤康史『文学鶴亀』を読む(その1) - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    週末、某所に籠る。終日軟禁状態で二泊を過ごすため、さて何のを持って行こうかとあれこれ物色し、なんとか決まりかけたところへ畏友武藤康史の新刊『文学鶴亀』が届く。鞄に入れかけた棚に戻し、『文学鶴亀』を仕舞い込む。二段組330頁、相手にとって不足はない、いざ見参。 緒言に曰く「この二十年ほどのあひだに書いた文章を劉覧に供したい」の言葉どおり、旧くは「すばる」86年3月号に掲載せられた「牧野伸顯」より近くは2005年「東京新聞」夕刊連載の「日語探偵帖」まで、「書物を読めばその一文一文、一語一語に惚れぼれし、朗読を聞けば間や息づかい一つひとつに惚れぼれし、芝居に行けば科白の一言一言に惚れぼれし、映画館に入ればカメラの一挙一動に惚れぼれする」と帯文に柴田元幸の書く「その惚れっぷりの深さ、律儀さ、熱心さ」に「惚れぼれ」しつつ卒読する。二十年待った甲斐があった。 武藤康史には過去に『国語辞典で腕

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  • ロブ=グリエのために - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    佐藤亜紀さんのブログ日記(新大蟻の生活と意見/2月19日)に、新聞のアラン・ロブ=グリエ死亡記事に関する批判が掲載されている(http://tamanoir.air-nifty.com/)。佐藤さんは某朝日新聞の死亡記事と共同通信(配信)の死亡記事とを並べて、某朝日新聞が「いかに駄目記事」であるかを詳述なさっている。詳細は直接ブログを御覧いただければよいのだけれども、当該記事の「(ロブ=グリエは)従来の小説の枠を打破し、ストーリーの一貫性に乏しかったり、心理描写を欠いていたりするヌーボーロマンの理論を確立した」(佐藤さんの引用されている文とリンク先の記事とは若干の異同がある)といったくだりに対して、 <「小説って一貫したストーリーがあって、心理描写があるもんだよね。だけどこの人の作品にはそういうものがないからつまんない。こんなの小説じゃないよ」という主張が簡単に読み取れる。と言うか、読み

    ロブ=グリエのために - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
  • 言葉のユートピア――塚本邦雄論序説(1) - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    戀に死すてふ とほき檜のはつ霜にわれらがくちびるの火ぞ冷ゆる おおはるかなる沖には雪のふるものを胡椒こぼれしあかときの皿 馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ ――「花曜」、『感幻楽』より 塚邦雄が生涯に遺した膨大な短歌のほとんどすべてが言語実験の賜物、塚の茂吉論の言葉を借りれば「破格大胆な冒険」といふべきであるが、なかんづく実験の意思を顕はにした歌集を一冊挙げるなら『感幻楽』であるといふのは衆目の一致するところだらう。塚自身、歌集の跋にかう記してゐる。 「第五歌集『緑色研究』のをはりに、言葉の無可有郷への首途を約してから、四年を閲した。かへりみて時のみが流れ、行きついたのは、いまだ言葉の修羅の域であつたといふ思ひが頻りである。」 言葉のユートピア。おそらくそれは字義どほりこの世に存在せぬ幻の楽土の謂ひであらう。かるがゆゑにそれを冀求する思ひは耐へがたいまでに熱い

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    inmymemory 2008/01/27
    (1)~(10)
  • カフカ翻訳異文 その1 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    おどろいた。いやあ、そうだったのか。ふうん。というようなことは、何かにつけて無知な私には日常茶飯事であるけれども、いや、これにはびっくりした。 カフカの短篇が丘沢静也さんの新訳で出たので買ってきた。『変身/掟の前で 他2編』(光文社古典新訳文庫)。ほかの二篇は「「判決」と「アカデミーで報告する」。帯のキャッチコピーが「カフカがカフカになった」(この翻訳によってカフカの真の姿が現れた、といった意味かと思ったが、そうではなく、これは「判決」によってカフカの文学が確立された、といった意味合いのことであった。訳者解説に出てくる。紛らわしいコピーですね)、そしてボディに「最新の<史的批判版カフカ全集>をピリオド奏法で」と小さく謳われている。 よく知られているように、カフカは生前ごくわずかな短篇を作品集として出版しただけで、長篇草稿や日記、手紙の類を友人のマックス・ブロートに託して自分の死後は焼却して

    カフカ翻訳異文 その1 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
  • カフカ翻訳異文 その2 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    さて、光文社古典新訳文庫の『変身/掟の前で 他2編』を読んで当にびっくりしたのは、訳者あとがきに指摘されていた次のような事実であった。 光文社文庫収録の短篇「判決」に、こういう箇所がある。 「ぼくはほんとうに幸せだ。そして、君との関係もちょっと変化した。といっても、君にとってごくありきたりな友人ではなく、幸せな友人になったということにすぎないのだが。いや、それだけじゃない。婚約者が君によろしくと言っている。」(14ページ) これは主人公のゲオルク・ベンデマンが友人にフリーダとの婚約を報告する手紙の一節だが、これを池内紀さんは白水社版カフカ小説全集4『変身ほか』でこう訳している。 「ぼくは幸せだ。だからといって君との友情に変わりはない。彼女は君によろしくと言っている。」(42ページ) 「判決」はカフカが生前に出版された小説であるから、テクストは確定されており、どのエディションでもほとんど異

    カフカ翻訳異文 その2 - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
  • わたしのなかのカフカへ - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    ふしぎなものだな、と思う。前回、前々回とカフカについて書いたら、わたしのなかでカフカがかふかに、じゃなかった、かすかに動きだした。まるでアニメートされたゴーレムのように。 ひところ、カフカに凝っていた。新潮社版の邦訳全集旧版と新版、それにカフカに関する評論などを目につくかぎり蒐めていた。マックス・ブロートの伝記(これも旧版と新版)、ヤノーホの『カフカとの対話』、マルト・ロベールの『カフカ』『カフカのように孤独に』『古きものと新しきもの』、ブランショ、カルージュ、バタイユ、クンデラ、ベンヤミン、アドルノ、ヴァルザー、バイスナー、ヴァーゲンバッハ、それに日の研究者、作家によるものも。それらのあるものはわたしにカフカに関する知識を少なからず与えてくれたし、あるものはカフカについてのわたしの考えをめざましく更新してくれた。その結果、カフカがすこし身近に感じられるようになった気がした。むろん錯覚に

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