1. 「弱さ」を晒せないという「弱さ」とは? 「女性」の友人と話していて驚かされることのひとつは、彼女たちが自らのプライベートの詳細を、たとえば、お付き合いしている男性とのあれやこれやの出来事や悩み事などの情報を、親しい友人たちの間でかなり共有しているということだ。もちろんグラデーションがあることだが、少なくとも「男性」の私が、悩みなどを友人などに打ち明けないこととはとても対照的で、分かってはいてもなかなかの衝撃を受けてしまう。 その違いは当然、歴史・社会的に構築されているものだけれども、「女性」の他者とのコミュニケーションのあり方のようなものが、「男性」の私とは異なることは、他人と築いている人間関係の生態系の違いからもみてとることができる。そして現在の日本社会のなかで、おそらく「生きやすい」のは、「女性」たちのコミュニケーションのありかたなのだろう。 「男性」たちのなかは、急激な社会の変
世の中に溢れている人工知能(AI)をめぐる情報は、正確に把握されたものではないからこそ、根拠のはっきりとしない期待や不安に満ちている。隠されたものが隠されているが故に、無限の創造力をかきたてるがごとく、時に「人類の最後の発明」のように扱われたり、時にはまるで悪魔でも召還するかのような話にもなってくる。 けれども、現場の研究者たちから直接的に伝えられるその実態を知ってみると、それは案外あっさりとしたものだったりする。むしろ、その実態に基づいて話が展開するのではなく、ファンタジーに基づいたイメージが世の中に溢れるようになるのは、そこが人びとの欲望の依り代になっているようにすら、感じられる。 ならばその欲望とはなんだろうか。まずそこには、フィクションの持つ想像力の快楽が入り込んでいるのは確かなことだろう。具体的な内容が分かってしまうと、それをどのようにツールとして使いこなすかという現実的で日常的
人間の行動を形作る価値観や、それに基づく習慣の総体としてのライフスタイルは、時代や場所による環境によって変化するものだということに、異論を唱えるものは少ないだろう。例えば、経済や政治の状況によってその生活が規定されることもあるだろし、また、テクノロジーの進化も様々な制約を解除したり作り上げたりしていくことは、特にインターネットの出現などを目の当たりにした世代にとっては、実感があるのではないだろうか。 しかしそのような変化の多くは、生き物としての人間すべてがすぐに適応できるほど緩やかでゆったりとしたスピードの変化ではない。その急激な変化についていけるものとついていけないものが生まれることは、簡単に想像することができる。生物の物理的な進化のスピードを、(本書でも言及されている)文化的遺伝子「ミーム」は遥かに凌駕していく。また、一人の人間の認知限界を超えたスピードで、情報やシステムは膨張していく
母国語をまるで外国語のように書くこと。私が「文学」というものの特性を考えた時、それはとても重要なエッセンスとなる。しかし、それは「小説」などの特定のジャンルに拘束されることのないものでもあるだろう。例えば、エッセイのようなものでもその「文学」性というものは露呈する。そのエッセンスはメディアによって表象され、痕跡としてその姿を表すのだ。 言葉というものは呪術的なものでもある。その言葉を読んだり聞いたりした以前と以後では徹底的に何かが変わってしまう。目に見えないはずの他人の思考の痕跡や道筋がそこに見えてしまうことで、言葉が読み手を支えている有機的な情報空間に関与しだす。そこには、人間の認識には複数の立脚点が可能であることを直感的に知ることのできる空間がうっすらと口を開けている。 その複数の立脚点の存在とそれを成り立たせている複数のロジックを捉えることは、ちょっとレトロな言い方をすれば「教養」と
「そのようにしか生きることのできない人々の姿が映し出すもの」、『「生き場」を探す日本人』(下川裕治 著) 「ここじゃないどこかへ」。 なんて言葉が孕んでいる感情は、すでにレトロで懐古主義な印象すら人々に与える。それは、「いまここ」や「マインドフルネス」といった思考傾向が、現代の日本が行き着いた歴史・社会的構造の帰結のようにみえるのと、おそらくはシンクロしているのだろう。そんな中、自分の「生き場」を探して放浪するなんていうあり方も、一見、ロマンティックな幻想に取り憑かれているように思われるのも無理もないことだ。 けれども、本書で紹介されている海外で暮らす日本人たちは、偶然に偶然が重なった結果とはいえ、すでにもう「そうでしかありえなかった」ような人たちだ。そこには憧れや幻想といったものがあるのではなく、そうではなくて、「そうならざるをえなかった」という断念や諦念を自らの「生き場」として繋げてい
「あっ、昨日は九龍ジョーさんの著作の発売日だったな」。午前中の用事を終えた僕は16時に北千住で行われる演劇を観る前に、新宿の本屋に向かうことにした。 最初に行ったのは、よく新刊本を買いに行くブックファースト。西口の地下にあり、夜遅くまで開いているのでよく利用する本屋だ。いくつかの本棚をめぐり、目視では見つけられなかったため、店内においてある検索用の機械で本のタイトル名を入力してみるが、出てこない。続いて、著者名で検索したけれども結果は同じだった。仕方ないので、東口にある紀伊国屋書店へ。ここでは、新刊本のコーナーで平積みになっているこの本すぐに見つけることができた。 新宿からJR山手線で西日暮里まで行き、そこから千代田線に乗り換えて北千住へ。公演までに小一時間の余裕があったので、近くに居心地な良さそうなカフェがないか、食べログやRettyを参照してみる。少し繁華街から離れたところにある一軒家
「生まれる場所さえ違えば意外と名君だった?カリオストロ伯爵の再評価について」、『ルパン三世 カリオストロの城』(監督:宮崎駿) 【注意】この話は「ルパン三世 カリオストロの城」のストーリーを知っていることを前提にしています。 当然のようにネタバレが含まれますので、見たくない方はすぐにこのページを閉じてください。 また、録画したものなどを確認して書いているわけではないので、うろ覚えの点についてはご容赦願います。 1. 金曜ロードショーで放送されていた「ルパン三世 カリオストロの城」を見た。 もう何度も繰り返して見たので、正直見飽きた作品ではあるが、それでもテンポが良く見られるのは、それだけ作品構成が優れている証拠だろう。 で、今回なんとなく気づいたのが、敵役であるカリオストロ伯爵の目的である。 普通にぼーっと見ている限りでは、伯爵はクラリスを妻とすることによって、国の正式な大公となることであ
「〈島〉の住民たちに〈海面下〉のことを伝える人びと」、『コミュニティ難民のススメ』(アサダワタル 著) 1.リスクヘッジとアイデンティティの喪失 著者のアサダワタルさんは、フワッと何かに護られいるような印象を受ける人だ。もちろん、それは僕の主観にすぎないわけだが、本書を読んで何故自分がそう思うのかが分かったような気がする。 それはつまり、ひとつの業界、コミュニティといったものに依存しなくても何とかやっていける人だということなのだ。まだちょっと、わかりにくいと思うのでもう少し説明してみよう。 複数の場所に足場があって、たとえ、その中のひとつが何らかの理由で失われたとしても、とりあえず、致命的な結果にはならない、ということなのだ。そのような強さは、Web上の情報ネットワークに似てるところがあるかもしれない。 それはリスクヘッジとしても非常に理に叶っている。けれども、本書で「コミュニティ難民」と
「その読後感の変化に驚く。『スピード』が支配する社会がたどり着く場所」、『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム 著) 1.私たちの「自由」は今、どのような道をたどっているのか? 「自由の追求は形而上学的な力ではなく、自然法によって説明することはできない。それは個性化の過程と文化の成長の必然的結果である。権威主義的組織は、自由の追求を生み出す根本的条件をとり除くことはできない。またこれらの条件から生ずる自由の追求を、根絶させることもできない。」p.260 考えることや自分の権利を放棄することが、結局、自由を放棄することになる、という話。現在の日本の中で読み返してみると、なんだか特別な読後感が訪れてくるのではなだろうか?学生時代に基礎テクストとして読んでいた頃とは全く感覚が異なっていることに驚いた。 もちろん、それは私自身が変化しているということもある。しかし、それだけではないことは明白だ。つ
「人類と娘、あるいはトウモロコシ畑と宇宙の話。」、映画『インターステラー』(監督:クリストファー・ノーラン) ※SF的な要素の分析はネット上にも散見されるので、ここでは備忘録的なレビューを書いておきます。ちなみに、ネタバレありまくるので、まだ観ていない人はご注意を。 1.黄昏時の人類、その最後の希望を乗せて 本作品は、理論物理学者キップ・ソーンを製作総指揮に迎えている。そのことにより最新の理論に基づく形で、「ワームホール」や「ブラックホール」、相対性理論における時間の理論や宇宙論などが展開されている。また、ノーラン監督がフィルムなどのアナログを好むためか、どこか懐かしい印象を与える映像の作品だ。この二重性がこの作品を奥行きのあるものにもしているのではないだろうか。「インターステラー」(Interstellar)とは『星間航法』のことを意味している。 舞台は劇的な環境変化が起きている未来の地
「境界線のこちら側から芸術ができること」、『透明な隣人 ~8 -エイト-によせて~』作・演出: 西尾佳織(鳥公園)/ドラマトゥルク: 岸本佳子(空[utsubo]) 1. 『8ーエイトー』。この戯曲はアメリカ・カルフォルニア州で実際に起きた同性間の婚姻の合憲性を問う裁判を題材にしている。とあるゲイの政治家の生涯を描いた映画『ミルク』の脚本を担当したダスティン・ランス・ブラックによって書かれたものだ。ブラック自身もまた、同性愛の当事者でもある。 当初、演出家の西尾佳織さんはこの原作に基づいた形で上演する予定だったという。けれども実際には、この戯曲を「モチーフ」としながらも、新たに書き下ろす形となった。 その理由は、この『8 -エイト-』という戯曲を元に演劇をおこしていく中で、演出家が根本的な違和感を抱いたからだ。 2. この『8』は「同性婚を法律上で認めさせる」というはっきりとした目的を持っ
1.本の中での出会い 「読み手の想像力に結び付いたとき、たった一文字であってもとてつもない広大な世界を与えることだってできる。」(p.2) 本の中で特別な出来事を経験することがある。 それは、ただ本の中の物語に出会う、ということだけではない。そうではなく、もっと直接的な経験として、文字の世界が自分に干渉してくる瞬間があるのだ。 2.消費されない出版業 この本の舞台になっているミシマ社は、たぶん、もっとも理想的な出版社のひとつだと思われる。 なぜなら、ただ消費されるだけでない言葉たちを、意識的に丁寧にパッケージングして、世の中に放流している数少ない出版社だからだ。 もちろん他の出版社だって、丁寧に作ってはいる。けれども、大きな会社では、専門化し市井の人々の生活から遊離してしまう部分もあるのではないだろうか。 3.触感のある本を 生活の地に根を下ろし、触感のある本を。本書には、その試行錯誤の現
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