■映画文化一層根付かせたい 映画ファンが個人などのカンパを受けて開館した映画館「シネマテークたかさき」=高崎市あら町=が昨年で誕生から10年を迎え、次の10年に向けて新たなスタートを切った。支配人の小林栄子さん(37)に、映画館運営に対する思いなどを聞いた。(椎名高志) ◇ --運営はNPO法人「たかさきコミュニティシネマ」(志尾睦子代表)が行うという珍しい形態。映画館誕生の経緯は 「まず、総支配人を務め、平成20年に亡くなった茂木正男の映画への情熱があった。『群馬でも観(み)たい映画を観たい』と自主上映活動を続け、それが今年で29回目となる高崎映画祭につながり、平成16年の開館に結びついた。NPOとしたことで行政の支援をいただきやすいというメリットもあった」 --11年目に突入したが、ここまで続いた原動力は何でしょう 「茂木が積み重ねてきた自主上映会や映画祭などの活動で多くの映画ファンが
中洲に“名画座”復活 ゲイツで感動再び [福岡県] 2015年01月31日(最終更新 2015年01月31日 00時01分) ル・ジャルダンのスクリーンを背に名画の上映企画をPRする柴田洋一さん写真を見る 懐かしの名作をスクリーンで楽しむ“名画座”が福岡市博多区中洲3丁目に復活する。かつて早良区西新で名画座を経営した柴田洋一さん(61)がゲイツビル(旧玉屋デパート)7階のホールを使い、2月4日から週3日上映する。「ガス燈」「第三の男」「シェーン」-。月ごとに作品を変える予定で、柴田さんは「スクリーンは小さめだが、映画談議に花を咲かせてほしい」と呼び掛けている。 柴田さんは名画座「てあとる西新」を1980年に設立し、支配人を務めた。「ゴジラ全作品3週間連続オールナイト」など、映画ファンをうならせる企画を組んだが、レンタルビデオの広がりなどを受け、88年に閉館した。 その後、柴田さんはNPO法
昔ながらの2本立て上映の二番館ながら、時代に合わせた展開を模索する映画館が神戸にある。新開地に拠を構えるCinema KOBEの支配人・木谷明博さんに話を聞いた。 神戸の新開地は、もともと映画の街として知られている。東京の浅草とよく比較されるほどの文化の街で、かつては多くの映画館が軒を連ねていた。 Cinema KOBEは、その新開地に残る、いわば二番館の映画館。最新作ではなく、公開から少し時間が経った映画作品を中心に上映している。隣にはポルノ映画上映館も併設。 一般1,500円、女性は1,000円で2作品観られるのがうれしい。一般的な二番館のイメージに比べてきれいな館内も魅力だ。 もともとは1957(昭和32)年に「新劇会館」という名称の映画館としてスタートした。途中で「シネマしんげき」に改称。 阪神・淡路大震災でビルが建て替わり、そして2010(平成22)年からCinema KOBEに
盛岡の映画館では、今でも手描き看板が掲出されているとTwitterで話題になっています。盛岡には未だ看板職人がいる。しかもハリウッドとかじゃなくアイカツと仮面ライダーだった。 pic.twitter.com/FEhbbqMgZD— 大口 真神 (@INUGAMI37564) 2015, 1月 3この看板が見られるのは岩手県盛岡市にある映画館「盛岡ピカデリー」と「盛岡ルミエール1・2」。大口真神(@INUGAMI37564)さんの投稿では、看板職人が手がけた「アイカツ」と「仮面ライダー」の看板が紹介されています。 ツイートは1700以上リツイートされ、「すばらしい!」、「子どものとき、この職業つきたかった」、「すんごい昭和臭するけど、味あっていいかもしれん...」などのコメントが寄せられています。手描き看板は一部のネットユーザーには有名で、以前にもプリキュアやデスノートの看板が話題になってい
企画特集 1【かながわの戦後】伊勢佐木の70年 「シネマ・ジャック&ベティ」で初代支配人を務めた福寿祁久雄さん=横浜市中区 「横浜シネマリン」を全面改装した八幡温子さん=横浜市中区 東京・銀座を散策する「銀ブラ」と並び、「伊勢ブラ」という言葉がある。横浜・伊勢佐木町の周辺には戦前、百貨店や劇場のほかに多くの映画館が軒を連ねていた。 だが、海外映画の封切館として知られた「横浜オデヲン座」は敗戦で、米軍専用の「オクタゴン劇場」になった。映画の内容も戦時中の内務省などに代わり、今度は連合国軍総司令部(GHQ)に検閲された。 一帯の接収が解除されると、映画館は次々に再開し、戦前を上回る30館以上に。「表現も自由になり、どんどん映画が面白くなった」。叔父が横浜で映画館を営んでいた福寿(ふく・じゅ)祁久雄(き・く・お)さん(79)は、幼い頃から多くの映画を見てきた。「戦後も娯楽といえばやはり映画。私
岩手県内初の常設映画館「紀念館(きねんかん)」が盛岡市に開館したのは、ちょうど100年前の1915(大正4)年のこと。同市に「映画館通り」という愛称が残るほど、庶民の娯楽として愛されてきた。1915年から20年後の35(昭和10)年8月15日には、「映画館通り」の礎となった中央映画劇場が開館した。同市の三田商店の創業者である三田義正が、農地だった一帯を新市街として整備する際に、集客の目玉として建設したのが同劇場だった。 県内の映画館数は、61、63年の143館が最多。「娯楽の王様」と呼ばれた黄金時代の60年代は映画館通りに巨大な看板が立ち並び、観客を呼び込んだ。以降はテレビの台頭などにより減少傾向にあるが、現在も県内21スクリーンが健在で、人々を楽しませている。 本県の豊かな自然や風土を生かしてロケが行われた映画作品も数多く存在する。昨年は遠野市で約7割が撮影された「蜩(ひぐらし)ノ記」が
豊劇新生プロジェクトのメンバー。写真左からプロジェクトリーダーの伊木翔、代表の石橋秀彦、デザイン&マネージメントの石橋未来子。 東京・新宿のミラノ座が12月31日で58年の歴史に幕を閉じる。その一方で横浜シネマリンが12月12日にリニューアルオープンしたのに続き、12月27日には兵庫・但馬地方唯一の映画館である豊岡劇場が、閉館から約2年の時を経て復活を果たした。実現させたのは、「豊劇」(とよげき)を愛する地元住民をはじめとする熱き有志たち。目指すのは、映画上映だけではない地域のコミュニティスペースとしての拠点作りだ。存続の危機にある地方の映画館にとって、時代を切り拓くモデルケースとなりそうだ。【取材・文:中山 治美】 古き良き劇場の面影を絶妙に残して 12月20日。12月27日のグランドオープンを前に、プレオープニング・イベントが開催された。招待されたのは、近隣住民など約60人。外観は19
札幌・蠍座30日に閉館 名画上映、18年で幕 (12/02 07:00) 映画館「蠍座」が入っているビル 札幌の映画館「蠍(さそり)座」(北区北9西3)が30日を最後に閉館する。1996年6月にビルの地下1階で開館。旧作を中心とした道内唯一の名画座で、代表の田中次郎さんが選んで、新作を含む良質な作品を上映してきた。全国でも珍しい個人経営の映画館が18年半の歴史に幕を下ろす。 田中さんは以前、地元のアミューズメント会社で映画部門を担当しており、異動を機に退社。学生時代に通った東京の名画座「蠍座」から名を取り、個人で開業した。 田中さんは「だいぶ考えましたが、経営的に限界です。劇場は荷が重かった。このままではもっと苦しくなり、スタッフに給料を払うこともできなくなるので、閉じることを決断しました。惜しまれて終わるのが良いのでしょう」と話している。<どうしん電子版に全文掲載> 前の記事 次の記事
北海道・札幌市の映画館、蠍座が2014年12月30日をもって閉館することが、蠍座が毎月発行する「蠍座通信」で発表された。 蠍座は札幌駅から徒歩3分ほどに位置するビルの地下1Fに、1996年6月オープン。55席の規模で、北海道唯一の名画座として3本立てのプログラムで上映を続けてきた。 「蠍座通信」最終号の文章のなかで、館主の田中次郎氏は「館主の強い好みを反映した映画を数多くかけつづけてここまでこれたのは、奇跡みたいなものです」「わたしにあともう少し経営能力がそなわっていたらもっと上手にやれたはずなのに、なさけないことですがうまくいきませんでした」と、18年6ヵ月間の営業の幕を閉じることを発表した。 また、須貝興行(現・SDエンターテイメント株式会社)勤務を経て、蠍座をオープンさせた当時の思い出として、「市内のある劇場代表の人が、『もう個人商店(映画館)の時代ではない』という意味の発言をどこか
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